AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

現実とのバランスを、という幻想

分離とバランスについての誤解は大変多いと思う。

人間の思考は整理することが仕事だ。整理するということはものごとを対立させて対比させ、その大小、高低、優劣などを測り、順列をつけることだ。そうするとものごとは整理される。それが思考の働きの主たる仕事でありそれ以上でも以下でもない。

スピリチュアルと実社会を対比させバランスしなくてはならないと感じているというお話をよく伺う。

それは多分、スピリチュアルをある限定した営みだと認識されてのことだと思う。内側に入り込み過ぎてはいけないと思っているのだとしたら、スピリチュアルは内側に入り込むことだという認識だし、考えすぎてしまうと思っている人は、スピリチュアルは考えることだと認識してのことだろう。

しかしこの世のすべて、宇宙のすべてはスピリチュアルだ、というのが答えだ。

スピリチュアルという限定した営みの中に神というジャンルがあるわけでもないし、ましてや愛というジャンルがあるわけでもない。もちろん世間というジャンルの中にスピリチュアルのカテゴリーがあるわけではない。

真理と神と愛は一つだし、この宇宙、この世界は真理と神と愛のなかで営まれている。スピリットとは無限の霊のことでありそれを神と呼ぶ。つまり、神は在るという真理に気づいていることがスピリチュアルなのだ。(宇宙を神と呼ぶのも誤解の一因となっている。宇宙はこの世だ。この空間のことだ。宇宙の中に愛があるのではない。愛の中に宇宙が生存していられるのだ)

この誤解にはきりがない。なぜそのように誤解するかといえば、それは思考によって神を整理し理解しようとするからであることに尽きる。

全てであるものを理解するには私たちは超越した感覚に頼るしかない。超越した感覚というのは身体の五感の世界である潜在意識に依らない感覚のことだ。

そう言うとなにか特別な機能を想起されるかもしれないが、その感覚こそ、特別ではなくて普遍、つまりすべてにおいて共通の感覚だ。

個体の経験を超えた、万人に通用する根底にある知覚のようなもの。それが真理と神と愛を感じる機能(直覚)だ。

肉体はいつもスペシャル(特別)なものだ。私の体験、私の経験、私の能力、私の感覚、それは対比によってしか理解されない。違いによっていつも認識されるものだ。

しかし、真理、神、愛は大いなるひとつであり違いではなく共通であることで理解される。

肉体の育ちや条件にどれだけ違いがあっても究極的に共有できるものがそれであり、それは私たちの意識に最初から備わっているものだ。肉体意識よりもずっと古く。だから私たちは、違いから目を離してそこを思い出しそこに戻ればいいのだ。

そこに平安がある。

社会の枠組みを変えることよりも、今この時ここで自分が戻ることができれば、その磁場に変化が起こる。あなたは枠組みではなく中身を変えることができる。それが霊的な成長、つまりどこでなにをしていてもあなたは光(神のこども)であることであり、神の本質的な力を有する。それが神との訓練だ。

スピリチュアルに生きるというのはそういうことだと強く思う。

二つの神に義理立てして両方に仕えることはできない。

なぜなら神は一つだから。

二つの神、つまりスピリットと肉体に仕えることを、バランスをとっていることだと思っているその欺瞞があなたの心身のバランスを崩しているのだ。それは幻想を在るものとしていて、実在である神を分離させる行為だから。

スピリチュアルであるというのは、現実に戻ることに他ならない。

これはもののたとえでも大げさな言い回しでもない。

真実というのはどこまで行っても完全に一致していることを言う。それがありてあるものだ。

そうは言っても、という世界はただ、あなたの思考がつじつま合わせのために作り出した架空のものでしかない。そこには混乱がある。そして真実にのみ平安がある。

愛を知る

神さまは人間の思惑とは全く違った叡智をお持ちです。

私たちは人生をかけてそれを探究することができます。

もし人生を少しでもつまらないとか価値が感じられないとか思うのは、それは人間が神を知らないからですし、神を知ろうとしていないからです。

 

ですが人間には過去のカルマの宿題があり、それに追われている間はなかなか神の本当の姿が見えません。

宿題をやらされている状態でいると私たちは神の新鮮な喜びを体験できません。

人はそれをよく、神さまからの罰だと勘違いします。

 

一番は、宿題を神に手伝ってもらい、神を喜ばせるために積極的に取り組むことです。

全ては神からの訓練だと理解することです。

(セッションはそのためのお手伝いです。)

 

神から離れてそれをすれば、それは単なる苦です。

けれど神からの口づけだと理解するとき、それは内なるキリストとの共同作業になります。

 

苦には、消極的な死、霊的怠慢、退屈さ、逃げなども含まれます。

これらは日常の中に知らないうちに共存しています。

共存と言っても魂と自我が分離している状態なので、社会でなにを達成したとしても満足を知りません。

生かされている感謝を感じることもできません。

でも自分は本当は神さまのものです。

命は自分のものではありません。

自分の命を持て余すのは、それを忘れているからです。

 

神は気まぐれな愛ではなく、完全な永遠の愛をお持ちです。

私たち人間はその愛をお手本に、学ぶためにこの世にいます。

学ぶというのは、自分のものにすることです。

 

人の愛は気まぐれです。

思うようになれば愛されていると感じ、思うようにならなければ愛されていないと感じます。

どんなときにも愛されているというのはどういうことでしょう。

自分のあらゆる面を愛することからしか、それは理解できません。

自分を愛するのは、人生をうまくゆかせるためではなく、神の愛をよく理解するためです。

神から愛されているように、神を愛するためです。

気まぐれな愛ではなくて、神のように愛するまで、そのレッスンは続きます。

でも神とのマンツーマンのレッスンは、この世で最高に幸せなものです。

愛を込める

「私たちは偉大なことはできません。偉大な愛で小さなことをするだけです。」

これはマザー・テレサの言葉。

真理を学ぶとこの言葉の真意がだんだんと心に沁みてくる。

マザー・テレサは偉大な行いをした人として知られているように思う。そして彼女をそのように認識していた頃、私はほとんど彼女に興味がなかった。

真理を求めているうちに彼女の言葉が私のハートに勝手に入って来るようになった。

 

愛は神から来る。

私たちは小さく無力な行いに神を招き入れることができる。

 

神(愛)という得体のしれないものをどう理解しどう受け入れるのか。

「まずは分析してからどう使うのか決める」という現代の思考が、壁となる。

しかしまず求めてさえみれば、神(愛)はあらゆるどのような道筋からも私たちのところへやって来る。

それが神のやり方。

 

お茶碗を洗いながら神(愛)を求めることができる。

その行いに神(愛)を招き入れ、神(愛)に触れ、神(愛)を込めることができる。

神(愛)は無限によくできている。

 

マザー・テレサはまさにそのように働きなさいと私たちに説いた。

 

私にはもっと別の道があるのではないかと悩むのなら、今やっていることの全てに愛を込めてみようと試みるといいかもしれない。そしてそれを「いったいどうやって?」と思うのなら、その理解そのものを神に求めるといい。

 

そしてちっとも込めることができないようであれば、それができるまで全力を尽くせばいい。

そしてそれが当たり前になる頃、神が踏み台を準備して、次のステージを差し出してくれる。この世は必ずそうなっている。

 

そうしてみるまでは、いくらステージを移り変わったとしてもやるべきことは同じになる。次々ステージを変えてみて、それはごほうびの先取りになってしまう。

 

神(愛)以外のなにに頼ってみても、神以上にこの世の仕組みに詳しいものはない。なぜなら創ったものが神だから。

神を知っていると思う人は、神が何を望むかもっと知りたくなるだろう。

神は私たちの愛だけを必要としている。

神のものとして愛を生きるようになるように私たちに求めている。

 

神とのレッスンはとてもとても楽しいものだ。

人はいつもわかりやすいかたちを求めるけれど、いったん神のやり方を選んでしまえばそのほとんどはいつもわかりやすい。

真理が単純であるように。


ブログランキングに登録しています。 クリックで応援よろしくお願いいたします。
公式サイト→トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピー

AZU WORLD©2002-2023