癒しの教科書は、実用書です。
精神論でもないし、ハウツーものでもありません。
真理はすべての人のすべての事柄に完全に適用できます。
「これは私についての書です」と、しまいには誰もが思うようになると思います。
ちなみに私は、そう感じています。
例えば。
こどもがあるとき「学校に行きたくない」と言ってどうしても行かなくなったとします。
お母さんである私は、「あら、どうして?」と反応します。
そしてこの子を学校に行かせるためにいろいろなことを考え、努力すると思います。
いいお母さんですよね。
でもこどもは、芳しい反応をしてくれません。
お母さんの葛藤は続きます。
お母さんは誰も、愛でいなければと心のどこかで思っています。
そして、問題が起こったのは、私の愛が足りないのかも、とどこかで恐れています。
こんな時、愛であるということはどんなことなんでしょう。
初めに巻き戻します。
こどもがある日「学校に行きたくない」と言ってどうしても学校に行きません。
「あら」
ここでまず言えるのは、こどもが学校に行かないことは「何か良くないことが起こっている」と、自分が反応している、ということです。
この時点で私たちは完全防衛モード=自我に入っています。
そうなんです。
ですからこの後、どんなに冷静に、優しく、愛があるかにみえる対処をしたとしても、それはソフトな戦闘なんです。
投影のシステムを理解している人でも同じです。
あら、この「良からぬ問題は、私の中のどんな問題を投影しているのかしら」
そして「相手を変えるんじゃなく、まず自分が変わらなくちゃ」
これは一歩進んだ見方に見えます。
でも、最初に時点で「悪いことが起こっている」という方向にわずかでも舵を切ったなら、その後の展開は「悪いことの原因探し」だけです。
それをしている間はずっと、愛から離れて行動しています。
どんなに努力しようが相手を思っていようが、です。
愛と反対の状態にありながら、自分は愛でいよう、愛でいなければと思っているのは葛藤以外のなんでしょう。
そこに平安はありません。
ゆえに愛に戻れません。
そして困ったことに、そうしている間はゴールがなんなのかわかっていません。
こどもがある日突然学校に行かなくなった時と同じように、ある日突然学校に行くようになる。
これがゴールでしょうか?
そしてそうなったのは、私があれこれ相手を思って努力したからでしょうか。
その成果としてこどもは学校に行くようになるのでしょうか。
これに違和感を感じていただけると嬉しいです。
これは、まるで罪と罰の法則です。
こどもが学校に行かないのは自分への罰で、学校に行くのは成果、ご褒美。
愛の法則とは真逆です。
奇跡講座における違った見方というのは、これを愛の中で見るなら何が起こっているのでしょう、という「実相」を見ることです。
それは、起こっていることをわきにどけることから始めます。
「相手がこう」「あの人がこう」「学校がこう」というすべてです。
なぜならそこにはすでに自分の判断が投影されてしまっていて、真実は見えていないからです。
そして自分の心の中で、愛から外れて恐れのスイッチが押され、悪の認定をしたところまで戻ってあげます。
私たちはそれを、自我の知覚によって瞬時に「悪いことが起こった」「敵が来た」「だから防衛しよう」と無意識的に判断します。(こういう判断をやるのが潜在意識です)
ですからまず、その判断を手放す必要があります。
聖霊(心の中に実在する神の働き・超意識)にその自我の判断を赦す(取り消す)ようお願いをします。
自我は何を恐れ、何をしようとしていたのだろう、と、聖霊の祭壇の前で問いかけてみます。
それはなんであれ、「自我の計画を遂行し、邪魔者を排する」ことが目的であったはずです。
子供を変えることを目的としないつもりでも、自我の判断の目的自体がそうだからです。
ここまでわかれば、それに対して「違う見方をさせてください」と祈ることは難しくないはずです。
ここまで順を追って心の中を理解しながら進むことができれば、その後のことはまさに奇跡となります。
お母さんは、自分に起こった問題(災難)という認識から離れることができ、その問題の根は自分の罪にある、というところから自由だからです。
そうすると、それはこども(という名の神の子でありきょうだいである者)が、愛に戻る道すがらに分かち合ってくれている、すべての人の課題と見なすことができます。
そうなったとき、それはすでに最良の答えが与えられている神への道そのものだということがわかります。
それが分かった時点で、分かち合う喜びと、そこへの導きを与えてくれる神と神の被造物への感謝のみが残されます。
これは正解を得ることに意味があるのではなく、誰もが本当に心の中でそうだという体験をすることに価値があります。
それを心の中で体験することが、自我を本当に離れて愛に戻る最も近道、もしくは唯一の道となるのだと思います。
「心を変える」「自分と向き合う」「相手を変えるのではなく自分を変える」などという言葉の意味はこういうことです。
決して、葛藤しているきょうだいをそのままにしておくことではありません。
私たちの心はひとつなのですから、そんなことは不可能です。
私たちは自分の心を変えることができるのと同じように、きょうだいの心を変えることができます。
そして、変えるというのは実は「戻る」ことです。
愛に、真実に、神のもとに。
戻るには、赦しが必要です。
赦さないまま変わることはあり得ません。
赦さないまま変わろうとすることは、より防御力の強い自我に置き換えることに他なりません。
そして赦す機能は、自我ではなく真の自己、つまり内在する神の働きの中に在ります。
赦しが進むと、やがては自分という隔たりが弱まり、大いなるひとつの内に安らぐその一部という認識に変わります。
その時、私は神の創造したままの神聖な自分である、という認識を取り戻すのです。
自分の真の目的がそれだと選んだ人は、起こることのすべてはただその目的のために与えられた最も適したレッスンだと知り、それを楽しむことができます。
その時世界に敵はおらず、ただ仲間がいろいろな役割を演じてくれているのだとわかります。
そこに攻撃、防衛は存在することはできません。
その時、そこには愛があり、自分は、すべては愛だけなのだとわかります。
◎次回オンライン瞑想会は、2月18日㈰午前10時からです。
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感謝とともに
AZU拝