真理を探究していくと、似て非なるものに度々ひっかかる。
度々というか、随時見直しを迫られる。
奇跡講座ではそれを「真逆」だと表現する。
学びが進むと、それが確かに真逆だとわかるようになってくる。
似て非なるものは私たちを落ち着かなくさせる。
時にざわっと恐れさせる。
しかし真逆なものには脅かされにくい。
あまりに歴然とした違いには騙されないし、誤解もしにくい。
例えば私は最近、ニコラ・テスラについての動画を見た。
彼は否応なく「天才」と表現される。
確かに、絵に描いたような天才ぶりだ。
テスラの所業や考えの中には、人類の希望となるようなものが多々あるように見える。
しかし、真理(神・愛)から見るとそれは非常に部分的であり誤りも多い(と見える)
。
人類は、彼を追随し、彼が実現したかった未来を踏襲し、それからその先に、真理を見つけるのだろうか。
それとも直ちに真理に向かうのだろうか。
それは似て非なるものに見えて、真逆にも見える。
多分、真逆なのだろう。
(テスラがではなく解釈がなのだけれど)
今日は春分で、春分は宇宙的なエネルギーの分岐点でありエネルギーシフトと関係しているように言われている。
それで、「今日みんなで祈ろう」という動きがあるようだ。
これも動画で見たのだが、大学の教授が祈りの力について計測していて、インフルエンサーとコラボしてすごい人数を集めて祈るイベントをやるそうだ。
教授の研究では祈りの効果として、限定的なことを祈ると、その反対側の効果も同時に発生することがわかっている。
カットしたキュウリの傷が治りますようにと祈ると、治癒に有利な場と不利な場が生まれるそうだ。
これは、二元の祈りをそのまま証明するおもしろい事実だ。
自我の行いはどこまで行っても二元だが、祈りの段階でもそうだということだ。
一方が満たされれば他方は失われる。これが二元。自我の世界だ。
それを受けて、インフルエンサーは今日のイベントのルールを「個人的なこと、自分のことについて祈るように」と限定した。
果たしてそれは祈りと言えるのだろうか。
どこかから失われ、誰かが奪われる類の願望と何が違うのだろうか。
それは個別の目的を大勢が掲げることになる。
大勢でやる意味は多分、強い祈りということだろうけれど、誤った祈りを束ねたところで強くなるはずはない。
一時的には波紋を起こしたとしても、その波紋はやがて小さくなり消えていく種類のものだ。
しかもその波は反対側の、負のさざ波を起こしてやがて消える。
なぜ教授の実験を踏まえているのにそんなことをするのだろう。
それは多分、一元なるものを知らないからだと思う。
私たちは単一の目的のために心を合わせて祈るときにのみ、二元の法則から自由になれる。
私たちがこのことを理解し、心を合わせて祈るのなら、それは時間や集合からの影響を超越する。
神を一元なるものと理解するか、二元の中に在るものと見るかでそれは変わる。
神を外側にあると認識する間は、二元である。
神は各々の中にあると見ているのも二元だ。
私たち神の子が一つであると見なければ一元ではない。
それは心にしかあり得ない。
神の子が一つであるとき、私たちはなにを祈るのだろう。
その真実が真実でありますように。
かくありますように。
amem.
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AZU拝