「ここまで来られて良かった」。
奇跡講座を学ばれている方からよく伺う言葉。
どういう意味なのかよく聴いてみると、これと出会えたことが奇跡だと感じていらっしゃるようだ。
確かに、導かれないと出会いようがないのかもしれない。
わずかな意欲を聞きつけた聖霊はその人にとって最も確かなやり方でそうする。
私たちはいつも「どうやって?」ということを気にする。
そしてどうやるかわかればそれができると考える。
私たちは、やればできると考えている。
だからできないのは怠慢だと考える。
でも、本当に大切なことは、自分の力では果たせない。
自分でできること、自分の力でできることのほうは、おまけみたいなものだ。
自分の限界を超えるというのは、もっと良い自分になること、過去よりもっと大きな力をつけることのように思いがちだけど、本当は、自分から離れることだと思う。
私たちは自分を握りしめている。
自分とはなにか、自分にはなにができるか、自分の価値とはなにか、自分は何を得るべきか、何を手放すべきか、と。
自分が何かを手放すことはできない。
自分は何も持っていないから。
自分とはこれだと思い込んでいるものはすべて過去の記憶に過ぎない。
過去を手放すということは、自分を手放すことだ。
だから人は過去を手放したくない。
もっといいものがあるという確信がなければ、人は何一つ手放すことなんてない。
もっといいものがあるという期待に似た感覚を、私たちは頼りに進む。
それを外に求めて、探し回る。
みつけては、もっともっとと探し回る。
どの時点でそれが代用品に過ぎないと気づくかだけが重要だ。
「神の子は、神の代用品には決して満足しない。」
結局は本物を求めるようになる。
求める者に、それは与えられる。
だから、「どうやって」ということを気にすることはない。
握りしめて生きている自分の身を引く。
ほんの少しでいい。完全さはいらない。
完全なんてこちらには存在していない。
そしてただ耳を澄ませる。
自然とか、空とか海とか、宇宙ではない。
それは内側(心)にある。
終わりのない生命。
無限の霊。
神聖な自己。
そしてその源。
境目の無いものを自分は知らない。
だが真の自己には境目がない。
その自己を見出せ。
そこに限界は存在できない。
それが、自己の限界を超えることだ。
あるべくしてそれはある。
無いところにそれを探すな。
あるところにそれを見出せ。
ただそれだけだ。
ヨガ(瞑想)。
それは神との合一。
神はビジネスなど知らない。
サバイバルも知らない。
だが自らの子を生かすすべてを知る。
感謝とともに
AZU拝
◎次回のオンライン瞑想会は3月17日㈰午前10時から、zoomにて行います。
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