癒しの教科書はもう、世界に出現しています。
癒しと治癒はひとつであり、癒しは赦しから来ます。
愛のないところに癒しはないとはよく言われていますが、問題なのは、癒されないと愛がなんなのかわからないということです。
ですから癒されたいからと言って愛をどこかから持ってきて塗り薬のように手当てするのは実際的に不可能です。
不可能なのに、それが正しいかのようにこの世ではやり取りされています。
愛は実のところ、完全なものです。
癒しはその完全なものに戻ることですが、戻るために必要なのが赦しです。
「本当は相手に非があるけれどゆるす」
「不満があるけれど、我慢してゆるす」
「自分のことを好きではないけれど、仕方なくゆるす」
というように、欠如を認めながらもそれを容認する形でなされることが赦しのイメージではないでしょうか。
それは私たちの心に負担を強います。
重荷をどんどん増やしていきます。
気がつく人、敏感な人、優しい人、正しさが好きな人などが進んでこの世的なゆるしを重ね、ため込み、疲弊して、そして怒っています。
そして癒しはそういう人のガス抜きのように、その場しのぎの逃げ場としてこの世に位置づけられているように見えます。
でも本当の癒しとは、根本的に、私たちを違う次元に運びます。
私たちは愛に創られた愛そのものです。
愛以外のものは実在しないのだから、実在していないものを実在していないところへ返すことが赦しです。
すると、実在していた本当のことがすべてになります。
実在していないのにあるかの如く居座っていた誤った知覚によるストーリーは最初からなかったように消え去り、その向こうに確かに初めから在ったものが見えるのです。
この工程が奇跡です。
ここにはオカルト的な不思議さはみじんもありません。
でも確かに、違う見方になるのです。
自分だけが事実を捻じ曲げてむりやり良いと思える見方をするのではありません。
関係性が変わり、時には相手自身が明らかに態度を変えることもあります。
そして結果的に自分への認識が変わります。
自分とはこう、という卑小な自己認識が、違うものに変わります。
つまり、愛に創造された愛という存在だった、というように。
それは長く暗いトンネルの中でやり取りされたストーリーを、トンネルごと取り外したようなもので、その時間をまるごと超えて着地します。
トンネルを外すと、私たちは初めて「今」に着地します。
今というのは、過去を取り消さなければ現れません。
取り消されない限りは、今は過去の延長であり過去の集大成でしかありません。
ここまで来ると、神とか愛とか真理の正体が少し見えてきます。
それは、時間の中に属さないものです。
時間とは連続しているように錯覚している肉体の知覚にしか属していません。
そこに存在しないのが愛です。
かつて私は愛(神)を知っていたとか過去の中にはあった、というのは全部、錯覚です。
ですから、過去を赦す必要があるのです。
過去の手放しは、段階を追って、準備とともに進みます。
例えばテレビは私たちを自我の知覚に縛っておく洗脳装置だから捨てましょうと言われ、本当にそうだなと思えれば即座に手放すでしょう。
でも、テレビ番組の中には有用な番組もわずかにある、と思っていれば捨てません。
過去もこんな感じです。
実際はテレビを捨ててしまうようにまるごとぽいとは行きませんが。
でも私たちはより良い自我を求めて生きています。
それは良い自我の記憶を価値あるものと見ているということとひとつです。
中には良いものもある、という見方を採用している限りは手放しはちょっぴりづつしか進まないものです。
もうこれ、いりません、赦させてください、癒してくださいと祈ると神の使者がやってきて、よし任せてと受け取ってくれます。
でも待って、これはまだ使えるし、もっといいものが来るまで取っておきたい、となると、よしわかった、と、手を引っ込めます。
そうやって自分で判断して自分で決めてしまうと、それ以上は進みません。
でも、「あなたに任せますから、一番早く神のもとに(愛に)戻れるよう、手放させてください。手放すのはだいぶ不安だけど、あなたを信頼して、これの代わりにあなたに守ってもらうことを選びます」と言えれば、そのようになります。
私たちは愛により創造された愛そのものなので、本当はなにが幸せなのかを知っています。
その幸せはこの世にあるような条件付きの、外から与えられたり突然奪われたり、時間が経つと色褪せたり、世の中の動きによって価値がなくなったりするようなものではありません。
恒久的で、対極を持たない、喜びです。
すべてのきょうだいの間で分かち合われますように。
そう願う価値のある真実だと思っています。
次回のオンライン瞑想会は2月18日㈰午前10時からです。
ご参加、お問い合わせを楽しみにお待ちしています。