AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

ちょっと難しい話ですが、うまく書けるかな。

春分を過ぎて、雪が降りまくっている信州諏訪・岡谷市からお送りしています。

みなさんはいかいかがお過ごしでしょうか。

 

奇跡講座を教科書にした意識の仕組みの講座を始めさせていただいてから3年が経ちました。

ヒプノセラピストを始めて24年。

信州に越してもうすぐ2年になります。

新型コロナのパンデミックが始まってから早4年。

311の震災からはまる13年。

沖縄にわたったのは15年前です。

なにもかもがつい今しがたのことのように感じます。

 

いろいろな時期を体験しましたが、今の生活は赦し一択です。

なぜ赦すだけでいいのか。

しかも、自分の力ではなく、お任せするのがいいのか。

なぜ奇跡講座なのか。

 

少し前、沖縄に奇跡講座の教師の方がアメリカからいらしていて、そのフライヤーには「奇跡講座はどちらかというと仏教に似ています」とありました。

奇跡講座にはキリスト教的表現が頻発するため、キリスト教がわからないとわからないんじゃないか、とか、キリスト教にはなじみがないから奇跡講座も受け入れにくいんじゃないか、という声を伺います。

そんな意見を受けて、いやむしろ仏教的なんです、という宣伝文句が生まれたのかな、などと思っています。

 

クリスチャンの方とも講座をご一緒しましたが、結果的には聖書を正しく解釈するために役に立つのではないかと私は思っています。

聖書にある譬えは正しい解釈なしに真理を受け取れないと思うからです。

 

仏教徒の方とも講座をご一緒しました。

仏教の教えは幅が広く、それぞれを深く学んだわけではないのですが、奇跡講座との類似点は、「この世は幻想である」という点があげられると思います。

でも、決定的に違う点が多々あります。

 

奇跡講座は、不二一元論(ノンデュアリティ)です。

二元性のものは存在していない。

一元のものとは神である。

ゆえに、神しか存在していない。(だから私たちは神の子、神の被造物である)

一元のものには対極がありません。

ですから死や終わり、損失というものもありません。

この世的法則も幻想です。引き寄せとか、カルマとか、時間もです。

無いものを有ると見ている誤解が神との障壁になっているものですが、その障壁とは自我という無き者が抱く幻想と見ます。

障壁を赦す(取り消しを願う)なら、真の一体性の元に戻れます。

 

仏教では生と死が有るという前提で、幻想を滅していきます。

つまり二元論が前提です。

死があるということは、肉体もあるということになります。

時間もありますね。

 

私は前世療法士ですので、たくさんの方の過去世を拝見してきました。

その中で、仏教的観念というものに出会うことが結構多くありました。

一番強烈に印象にあるのは、仏道の修行をされた方は多分に「この修行の果てに悟りがある」という悲願のような感情を抱かれている点です。

多分お釈迦様はそうは説かれていないはずですが、輪廻を繰り返すことで少しずつ学びが進み、その先に自分が悟り解脱があるという考えです。

 

そんな記憶が登壇する時点でその方は悟りを知りません。

次の肉体にその願望を託しているからです。

いうなれば、悟るための修行するために肉体への執着がありそれによって解脱できない、というような不条理が起こっています。

悟っていない想念は、どんな場合にも、その人の幸せ(神に向かうこと)への障壁になりえます。

こういうことをよく目の当たりにしました。

こういう方に体を離れていただくには、私が悟るか、それとも悟った霊に助けていただくかしかありません。

私の選択はもちろん後者です。つまり聖霊にお願いするのです。

 

仏教の修行は、心を鍛えるイメージがあります。

鍛えて鍛えて、不動のものを手に入れる感じです。

そしていつか、悟りの殿堂の仲間入りを果たすのです。

二元が前提ならそうなるに違いありません。

二元だから、たくさん行いたくさん修行しなければならないのだと思います。

 

一元というのは、天国しかないという見方です。

天国は心という次元にしか存在しません。

天国は神が作ったほんものだけど、地獄は自我という幻想が作ったつもりの幻影です。

地獄にはリアリティー、ゼロなんです。

この世は無いけど、神は在る。これが奇跡講座の教える一元論です。

 

どう違っていても、人が本当に救われて幸せになれるんならいいではないか。

私もそう思うのですが、究極的に救われない可能性がちょっとでも含まれているなら私は気乗りしません。

 

例えば奇跡講座を学んでいても、「ここまでこれたのは、過去の多くの学びの積み重ねの結果だ」という考えは良くみなんさの口から出てきます。

 

けれど、赦しによる奇跡は、過去のおかげではなく、ただ「今」選んだことによるのです。

幻想の中でより良い幻想を重ねても、神に近づくことはありません。

これは逆に、神から程遠いような自我まみれの状態にいたとしても、その人が瞬時に救われることは可能だと教えています。

教養や環境に恵まれなくても善行を積まなくても、助けは瞬時に届くのです。

これは、宗教とも昨今の巷のスピリチュアルとも大きく違うところです。

 

もれなく幻想を取り消したなら、残りは全部愛になる。

私はそれが好きです。

この世では、愛は強固で確実な物質の脇にちょこっと張り付けてある飾りのような扱いを受けています。

でも真理の前にはその強固で確実に見える物体はぺらぺらでふっと消えます。

 

量子が粒と波であるなら、その波に愛だけ伝えることを可能にするのが一元論という真理のように思うのです。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

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感謝とともに

AZU拝

似て非なる

真理を探究していくと、似て非なるものに度々ひっかかる。

度々というか、随時見直しを迫られる。

 

奇跡講座ではそれを「真逆」だと表現する。

学びが進むと、それが確かに真逆だとわかるようになってくる。

 

似て非なるものは私たちを落ち着かなくさせる。

時にざわっと恐れさせる。

しかし真逆なものには脅かされにくい。

あまりに歴然とした違いには騙されないし、誤解もしにくい。

 

例えば私は最近、ニコラ・テスラについての動画を見た。

彼は否応なく「天才」と表現される。

確かに、絵に描いたような天才ぶりだ。

 

テスラの所業や考えの中には、人類の希望となるようなものが多々あるように見える。

しかし、真理(神・愛)から見るとそれは非常に部分的であり誤りも多い(と見える)

人類は、彼を追随し、彼が実現したかった未来を踏襲し、それからその先に、真理を見つけるのだろうか。

それとも直ちに真理に向かうのだろうか。

それは似て非なるものに見えて、真逆にも見える。

多分、真逆なのだろう。

(テスラがではなく解釈がなのだけれど)

 

今日は春分で、春分は宇宙的なエネルギーの分岐点でありエネルギーシフトと関係しているように言われている。

それで、「今日みんなで祈ろう」という動きがあるようだ。

 

これも動画で見たのだが、大学の教授が祈りの力について計測していて、インフルエンサーとコラボしてすごい人数を集めて祈るイベントをやるそうだ。

 

教授の研究では祈りの効果として、限定的なことを祈ると、その反対側の効果も同時に発生することがわかっている。

カットしたキュウリの傷が治りますようにと祈ると、治癒に有利な場と不利な場が生まれるそうだ。

これは、二元の祈りをそのまま証明するおもしろい事実だ。

自我の行いはどこまで行っても二元だが、祈りの段階でもそうだということだ。

一方が満たされれば他方は失われる。これが二元。自我の世界だ。

 

それを受けて、インフルエンサーは今日のイベントのルールを「個人的なこと、自分のことについて祈るように」と限定した。

果たしてそれは祈りと言えるのだろうか。

どこかから失われ、誰かが奪われる類の願望と何が違うのだろうか。

それは個別の目的を大勢が掲げることになる。

大勢でやる意味は多分、強い祈りということだろうけれど、誤った祈りを束ねたところで強くなるはずはない。

一時的には波紋を起こしたとしても、その波紋はやがて小さくなり消えていく種類のものだ。

しかもその波は反対側の、負のさざ波を起こしてやがて消える。

なぜ教授の実験を踏まえているのにそんなことをするのだろう。

それは多分、一元なるものを知らないからだと思う。

 

私たちは単一の目的のために心を合わせて祈るときにのみ、二元の法則から自由になれる。

私たちがこのことを理解し、心を合わせて祈るのなら、それは時間や集合からの影響を超越する。

 

神を一元なるものと理解するか、二元の中に在るものと見るかでそれは変わる。

神を外側にあると認識する間は、二元である。

神は各々の中にあると見ているのも二元だ。

私たち神の子が一つであると見なければ一元ではない。

それは心にしかあり得ない。

 

神の子が一つであるとき、私たちはなにを祈るのだろう。

その真実が真実でありますように。

かくありますように。

amem.

 

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AZU拝

手放すやり方

「ここまで来られて良かった」。

奇跡講座を学ばれている方からよく伺う言葉。

どういう意味なのかよく聴いてみると、これと出会えたことが奇跡だと感じていらっしゃるようだ。

確かに、導かれないと出会いようがないのかもしれない。

わずかな意欲を聞きつけた聖霊はその人にとって最も確かなやり方でそうする。

 

私たちはいつも「どうやって?」ということを気にする。

そしてどうやるかわかればそれができると考える。

 

私たちは、やればできると考えている。

だからできないのは怠慢だと考える。

 

でも、本当に大切なことは、自分の力では果たせない。

自分でできること、自分の力でできることのほうは、おまけみたいなものだ。

 

自分の限界を超えるというのは、もっと良い自分になること、過去よりもっと大きな力をつけることのように思いがちだけど、本当は、自分から離れることだと思う。

 

私たちは自分を握りしめている。

自分とはなにか、自分にはなにができるか、自分の価値とはなにか、自分は何を得るべきか、何を手放すべきか、と。

 

自分が何かを手放すことはできない。

自分は何も持っていないから。

 

自分とはこれだと思い込んでいるものはすべて過去の記憶に過ぎない。

 

過去を手放すということは、自分を手放すことだ。

だから人は過去を手放したくない。

 

もっといいものがあるという確信がなければ、人は何一つ手放すことなんてない。

 

もっといいものがあるという期待に似た感覚を、私たちは頼りに進む。

 

それを外に求めて、探し回る。

 

みつけては、もっともっとと探し回る。

 

どの時点でそれが代用品に過ぎないと気づくかだけが重要だ。

 

「神の子は、神の代用品には決して満足しない。」

結局は本物を求めるようになる。

 

求める者に、それは与えられる。

 

だから、「どうやって」ということを気にすることはない。

 

握りしめて生きている自分の身を引く。

ほんの少しでいい。完全さはいらない。

完全なんてこちらには存在していない。

 

そしてただ耳を澄ませる。

 

自然とか、空とか海とか、宇宙ではない。

それは内側(心)にある。

終わりのない生命。

無限の霊。

神聖な自己。

そしてその源。

 

境目の無いものを自分は知らない。

だが真の自己には境目がない。

 

その自己を見出せ。

そこに限界は存在できない。

 

それが、自己の限界を超えることだ。

あるべくしてそれはある。

無いところにそれを探すな。

 

あるところにそれを見出せ。

ただそれだけだ。

 

ヨガ(瞑想)。

それは神との合一。

神はビジネスなど知らない。

サバイバルも知らない。

だが自らの子を生かすすべてを知る。

 

感謝とともに

AZU拝

 

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