AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

超難しい話から、超単純な話へ。

みなさん、こんにちは。

今日はどんより空模様の信州諏訪・岡谷からお送りしています。

子供のころ、どんよりやしとしと雨模様の日はいつも頭痛がしていました。

そしてその頭痛は一度始まるとどんどん悪化し、最悪のたうち回って苦しみます。

結局鎮痛剤を飲んで、吐いたりして、疲れ切って眠って、ようやく収束するパターンはよくありました。

今は、その頭痛もだいぶコントロールできています。

コントロールというのは解釈と付き合い方、つまり受け入れ、納得です。

受け入れ納得すると、物事はそれ以上でも以下でもなくなります。

そしてやがて過ぎていきます。

静かに観察していると、やがて収まるということがとても増えました。

全部ではないです。もう少し休養を必要とすることもあります。

でもそういう理解ができるようになると、頭痛自体も随分減りました。

 

理解がないとき、私たちは起こっていることを恐れるので、その恐れが痛みを増幅します。

対処しないと死ぬぞ、みたいに追い込まれるんですよね。

追い込まれると抵抗してもがくので余計に苦しい。

そして構えるようになる。

構えると緊張がそれを引き起こす。

いろいろなことがらに当てはまる気がします。

 

 

前回の続きというか、もう少し突っ込みたいと思います。

仏教に例えましたが、二元と一元の違いについて、書き終えた後から書きたいことがどんどん出てきました。

 

二元にはあれもあるこれもあると書きましたが、決定的なのは「罪がある」とすることかと思います。

二元である限り、この世のすべての宗教は同じだと思います。

 

というのも、二元の世界は良いか悪いかどちらかだからです。

良いも悪いもどちらも実在するんです。

ということは、悪い方には罪があり、その罪を犯せば相当の結果を伴うのは当然です。

これが原因と結果の法則です。

 

今更なんだ、当たり前すぎる、という感じでしょうか。

でもそれがこの世だとして、だから罪を贖うということは、悪いことをやめて(キリスト教的には悔い改めて)、良いことをするようにするというのが悪から逃れる道ですよね。

 

でも、世の半分が善なら半分は悪です。

誰かが善チームに行ったら、誰かが悪のチームに格下げされます。

そうでないと二元の世は成り立たないし、生きてる限り罪はなくなりません。

これって、この世界自体が地獄ではないですか。

だから、ゴールはないんです。

ゴールがないから地獄なんです。

そういうものなんだ、という人の意見もたくさん聞いた気がします。

 

もしかしたらお釈迦様は、そういう二元を超えた人かもしれない。

いや多分、超えられたのでしょう。

でもそこに至るまで、どれだけの道なき道を乗り越えてそこに到達されたのでしょう。

そこに至るには、あらゆる条件がそろわないとそのゴールにさえ向かうことができないのではないでしょうか。

あらゆる条件とは、過去の積み重ね以外のなんでしょう。

瞑想するにも、ただ座ることすら、心はなかなか私たちに許しません。

罪(咎め)の意識がある限り、私たちは静かに座ることもままなりません。

ですから時間と行いの連続の果てに、ごく選ばれた人が辿り着くのが悟りというふうになるのではないでしょうか。

 

二元の世界は、善と悪、神と悪魔が互角に対立する世界です。

そしてその均衡は保たれ続けます。

私たちはこの世界にいて、いつかその割合が9対1、10対0になることを夢見て、戦い続けているのです。

 

不可能なことを可能に、無意味なことに価値を、無理なことが道理になるようにと、求めています。

そこで悟るというと、「そんな期待ははなから捨てなさい。そうしたら楽になるから」というような意味合いで用いられるように見えます。

 

そういう意味合いの楽を私は幸せとは思えません。

地獄にいるんだから地獄なりに平穏に生きなさい、というのが平和だとでもいうのでしょうか。

 

誰かがふと、自分には食欲がありすぎると思ったとします。

賢者に相談すると、食欲を克服する方法を教えてくれます。

食欲を性欲とか、自己顕示欲とか、所有欲とか、何に置き換えてもいいです。

 

でもなぜ、それを克服しなければならないかといえば、それが罪と見なされるです。

罪が実在すると見なしてから、それを赦す(取り消す)というやり方です。

 

自分には食欲がありすぎる。

そうすると、お金がかかりすぎる。太ってしまう。健康を害する。セルフコントロールができてないと見なされる。気分が悪い。霊的成長を阻害する。など、問題がいろいろあるように見えます。

奇跡講座で障壁とされるのは、「自我が存続するための攻防」だけです。

真の自己を覆い隠し、別の目的が正しいと思わせるような錯覚だけが、障壁です。

 

そう見るとなると、過剰に見える食欲は、きょうだいから自分を分離させておくために自ら築いている防壁そのものかもしれないし、分離していしまっているがゆえに、愛に戻れないことから、愛の代用品によって自分を満たそうとする代償行為かもしれない。

 

しかしいずれにしてもその現象自体は、ただ「今分離しているよ」そして「その分離から一体性へ戻ろうよ。戻りたいんでしょ」という導きの声でしかなくなるということなんです。

この見方が、一元論です。

目的は一つしかないので、障壁に対する見方も一つしかありません。

罪という見方はありません。

すべてが愛への道であり愛の表現の一形態です。

そしてそれ以外の諸々は、実在していないのです。

なんの効力も有していないものは、ただ手放すだけです。

 

そうであるなら、私たちが向かうべきはやはり一つしかありません。

 

分離していたいという願望の背後にあるのは恐れしかありません。

ですから自分は何を恐れているのかと問いかけ、その答えを受け取ります。

そして、その恐れを赦させてください、と聖霊に祈ります。

自分が恐れから愛に戻れるように祈ります。

 

順番とか、全部をワンセットでやるかどうかは問題ではありません。

この件に関して、入ってきてください(介在してください)と願うだけでもいいです。

いずれにしてもそれは受け入れられ、時にただ心の中での気づきと理解を通して、時にきょうだいとのやり取り通して、時に出来事や出会いを通して、応えはもたらされます。

 

奇跡講座は全体の概要をつかむまでが苦労しますが、中身は単純です。

ですが、その単純さを自分に誠実に適用するかどうかで結果はまるで違ってきます。

私たちがどれだけ自我の訓練を受け、自我の見方で世界を作りこんでいるか、違う見かたを実際に重ねるほどに驚かされることでしょう。

 

奇跡講座は、あなたの時間を縮めます。

それは単に10年を1年にするというレベルではありません。

本当はひとつであるすべてのきょうだいたちが一斉に時間を超えることが可能なレベルでそうなのです。

私はそう思います。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

◎次回のオンライン瞑想会は4月7日㈰午前10時から、zoomにて行います。

お席は充分に空きがございます。ご参加をお待ちしています。

 

◎個人セッションは対面またはオンラインのどちらでも対応いたします。

 

◎奇跡講座を教科書にした「究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座」は随時受講者さんを募集中です。

 

ご利用をお待ちしています。

感謝とともに

AZU拝

ちょっと難しい話ですが、うまく書けるかな。

春分を過ぎて、雪が降りまくっている信州諏訪・岡谷市からお送りしています。

みなさんはいかいかがお過ごしでしょうか。

 

奇跡講座を教科書にした意識の仕組みの講座を始めさせていただいてから3年が経ちました。

ヒプノセラピストを始めて24年。

信州に越してもうすぐ2年になります。

新型コロナのパンデミックが始まってから早4年。

311の震災からはまる13年。

沖縄にわたったのは15年前です。

なにもかもがつい今しがたのことのように感じます。

 

いろいろな時期を体験しましたが、今の生活は赦し一択です。

なぜ赦すだけでいいのか。

しかも、自分の力ではなく、お任せするのがいいのか。

なぜ奇跡講座なのか。

 

少し前、沖縄に奇跡講座の教師の方がアメリカからいらしていて、そのフライヤーには「奇跡講座はどちらかというと仏教に似ています」とありました。

奇跡講座にはキリスト教的表現が頻発するため、キリスト教がわからないとわからないんじゃないか、とか、キリスト教にはなじみがないから奇跡講座も受け入れにくいんじゃないか、という声を伺います。

そんな意見を受けて、いやむしろ仏教的なんです、という宣伝文句が生まれたのかな、などと思っています。

 

クリスチャンの方とも講座をご一緒しましたが、結果的には聖書を正しく解釈するために役に立つのではないかと私は思っています。

聖書にある譬えは正しい解釈なしに真理を受け取れないと思うからです。

 

仏教徒の方とも講座をご一緒しました。

仏教の教えは幅が広く、それぞれを深く学んだわけではないのですが、奇跡講座との類似点は、「この世は幻想である」という点があげられると思います。

でも、決定的に違う点が多々あります。

 

奇跡講座は、不二一元論(ノンデュアリティ)です。

二元性のものは存在していない。

一元のものとは神である。

ゆえに、神しか存在していない。(だから私たちは神の子、神の被造物である)

一元のものには対極がありません。

ですから死や終わり、損失というものもありません。

この世的法則も幻想です。引き寄せとか、カルマとか、時間もです。

無いものを有ると見ている誤解が神との障壁になっているものですが、その障壁とは自我という無き者が抱く幻想と見ます。

障壁を赦す(取り消しを願う)なら、真の一体性の元に戻れます。

 

仏教では生と死が有るという前提で、幻想を滅していきます。

つまり二元論が前提です。

死があるということは、肉体もあるということになります。

時間もありますね。

 

私は前世療法士ですので、たくさんの方の過去世を拝見してきました。

その中で、仏教的観念というものに出会うことが結構多くありました。

一番強烈に印象にあるのは、仏道の修行をされた方は多分に「この修行の果てに悟りがある」という悲願のような感情を抱かれている点です。

多分お釈迦様はそうは説かれていないはずですが、輪廻を繰り返すことで少しずつ学びが進み、その先に自分が悟り解脱があるという考えです。

 

そんな記憶が登壇する時点でその方は悟りを知りません。

次の肉体にその願望を託しているからです。

いうなれば、悟るための修行するために肉体への執着がありそれによって解脱できない、というような不条理が起こっています。

悟っていない想念は、どんな場合にも、その人の幸せ(神に向かうこと)への障壁になりえます。

こういうことをよく目の当たりにしました。

こういう方に体を離れていただくには、私が悟るか、それとも悟った霊に助けていただくかしかありません。

私の選択はもちろん後者です。つまり聖霊にお願いするのです。

 

仏教の修行は、心を鍛えるイメージがあります。

鍛えて鍛えて、不動のものを手に入れる感じです。

そしていつか、悟りの殿堂の仲間入りを果たすのです。

二元が前提ならそうなるに違いありません。

二元だから、たくさん行いたくさん修行しなければならないのだと思います。

 

一元というのは、天国しかないという見方です。

天国は心という次元にしか存在しません。

天国は神が作ったほんものだけど、地獄は自我という幻想が作ったつもりの幻影です。

地獄にはリアリティー、ゼロなんです。

この世は無いけど、神は在る。これが奇跡講座の教える一元論です。

 

どう違っていても、人が本当に救われて幸せになれるんならいいではないか。

私もそう思うのですが、究極的に救われない可能性がちょっとでも含まれているなら私は気乗りしません。

 

例えば奇跡講座を学んでいても、「ここまでこれたのは、過去の多くの学びの積み重ねの結果だ」という考えは良くみなんさの口から出てきます。

 

けれど、赦しによる奇跡は、過去のおかげではなく、ただ「今」選んだことによるのです。

幻想の中でより良い幻想を重ねても、神に近づくことはありません。

これは逆に、神から程遠いような自我まみれの状態にいたとしても、その人が瞬時に救われることは可能だと教えています。

教養や環境に恵まれなくても善行を積まなくても、助けは瞬時に届くのです。

これは、宗教とも昨今の巷のスピリチュアルとも大きく違うところです。

 

もれなく幻想を取り消したなら、残りは全部愛になる。

私はそれが好きです。

この世では、愛は強固で確実な物質の脇にちょこっと張り付けてある飾りのような扱いを受けています。

でも真理の前にはその強固で確実に見える物体はぺらぺらでふっと消えます。

 

量子が粒と波であるなら、その波に愛だけ伝えることを可能にするのが一元論という真理のように思うのです。

 

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

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感謝とともに

AZU拝

似て非なる

真理を探究していくと、似て非なるものに度々ひっかかる。

度々というか、随時見直しを迫られる。

 

奇跡講座ではそれを「真逆」だと表現する。

学びが進むと、それが確かに真逆だとわかるようになってくる。

 

似て非なるものは私たちを落ち着かなくさせる。

時にざわっと恐れさせる。

しかし真逆なものには脅かされにくい。

あまりに歴然とした違いには騙されないし、誤解もしにくい。

 

例えば私は最近、ニコラ・テスラについての動画を見た。

彼は否応なく「天才」と表現される。

確かに、絵に描いたような天才ぶりだ。

 

テスラの所業や考えの中には、人類の希望となるようなものが多々あるように見える。

しかし、真理(神・愛)から見るとそれは非常に部分的であり誤りも多い(と見える)

人類は、彼を追随し、彼が実現したかった未来を踏襲し、それからその先に、真理を見つけるのだろうか。

それとも直ちに真理に向かうのだろうか。

それは似て非なるものに見えて、真逆にも見える。

多分、真逆なのだろう。

(テスラがではなく解釈がなのだけれど)

 

今日は春分で、春分は宇宙的なエネルギーの分岐点でありエネルギーシフトと関係しているように言われている。

それで、「今日みんなで祈ろう」という動きがあるようだ。

 

これも動画で見たのだが、大学の教授が祈りの力について計測していて、インフルエンサーとコラボしてすごい人数を集めて祈るイベントをやるそうだ。

 

教授の研究では祈りの効果として、限定的なことを祈ると、その反対側の効果も同時に発生することがわかっている。

カットしたキュウリの傷が治りますようにと祈ると、治癒に有利な場と不利な場が生まれるそうだ。

これは、二元の祈りをそのまま証明するおもしろい事実だ。

自我の行いはどこまで行っても二元だが、祈りの段階でもそうだということだ。

一方が満たされれば他方は失われる。これが二元。自我の世界だ。

 

それを受けて、インフルエンサーは今日のイベントのルールを「個人的なこと、自分のことについて祈るように」と限定した。

果たしてそれは祈りと言えるのだろうか。

どこかから失われ、誰かが奪われる類の願望と何が違うのだろうか。

それは個別の目的を大勢が掲げることになる。

大勢でやる意味は多分、強い祈りということだろうけれど、誤った祈りを束ねたところで強くなるはずはない。

一時的には波紋を起こしたとしても、その波紋はやがて小さくなり消えていく種類のものだ。

しかもその波は反対側の、負のさざ波を起こしてやがて消える。

なぜ教授の実験を踏まえているのにそんなことをするのだろう。

それは多分、一元なるものを知らないからだと思う。

 

私たちは単一の目的のために心を合わせて祈るときにのみ、二元の法則から自由になれる。

私たちがこのことを理解し、心を合わせて祈るのなら、それは時間や集合からの影響を超越する。

 

神を一元なるものと理解するか、二元の中に在るものと見るかでそれは変わる。

神を外側にあると認識する間は、二元である。

神は各々の中にあると見ているのも二元だ。

私たち神の子が一つであると見なければ一元ではない。

それは心にしかあり得ない。

 

神の子が一つであるとき、私たちはなにを祈るのだろう。

その真実が真実でありますように。

かくありますように。

amem.

 

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AZU拝


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