AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

わかっている人は当たり前のことしか言わない

本当にわかっている人は当たり前のことしか言わない。ということを、つくづく思う。この世には特例なんてなくて、すべては緻密な原則に従って成り立っている。それを認めたくないのが人情なのだろう。特別ななにかでなければ認めてもらえないという社会に私たちは慣れすぎている。しかし特別なものなどなにもない。

 

自分が自分のことで苦しんでいた時の言い分は「わかってもらえない」だった。それは一方的で、実は自分がわかっていなかっただけだ。でも苦しみの中にいると、自分はわかっている、と感じてしまう。それは苦しみという鋳型にはまって、本質的な叡智から離れ、肉体感覚の世界に陥ってしまうからだ。自分の感覚しか感じられないのだ。

 

おまけに苦しい時ほど人は頭を使って自己防衛する。そうすればするほど、外は敵に感じられるし、実際に攻撃を受ける。これが自然の法則なのだ。

 

しかしいったい、苦しい時に自分を開いていられるだろうか。自然の生き物であればそんなことはしない。それは意識的に選ばなくてはできないことだ。意識的に選ぶこと、しかしやろうとしても、苦しみの中にある時の選択肢はどれも防衛的、消極的なものに限られる。それしか見えないのだ。

 

見直すべきは、私たちがそこで無意識に従っているルールのほうだ。無意識のルールの根拠はだいたいいつも、育った環境に即している。そのルールをもっと広く高い境地の視点のものに置き換えてあげるとどうなるだろう。

 

その時、「問題が問題ではなくなる」という奇跡的な解決が起こる。これが言わば神のやり方だ。神は裁きによってではなく成長という神が与えた性質によりすべてとの和解に導く。

 

問題が問題ではなくなって、それでどうなるか。

 

ここからが本当に重要なところだ。

 

私たちはその先を生きることができる。それが、魂として生きることなのだと思う。

 

その場に立たされた人だけがおそらく、これまでと違う見解を見つける。世界への認識を改めることができる。

 

問題に向き合うというのは、その先があるんだということへの入り口なのだ。多くの人が問題を抱え、それをやり過ごすのに必死だ。こんなことに関わっていたら人生を遂行できないと思っている。でも本当は違うのだ。そのことは言葉では言えない。

 

瞑想があなたをそこに連れていく。まずは入り口に立たせてくれる。そして内なる神があなたに語る。

 

あなたが人生で重要だと、或いは重荷だと感じてきたことをすべて引き受けて片付けてあげましょう。

それで、そうしたら、あなたはどう生きますか?なにを選びますか?毎瞬、何を選んでいかに生きますか?

 

そこからあなたの創造が始まる。それは頭で考えたり、肉体で体験することとは全く違うことだ。なぜなら魂がやることだから。

 

癒しの本当の意味を知ってほしい。

それは一時的な快楽とは真逆のものだ。

 

癒しとは、永遠のものへの回帰のこと。

恒久的な平和こそが平安。

 

瞑想は今ある環境から離れ、内なる神というあなたの本質に集中すること。

絶景も特別な準備もいりません。(とはいえルーアには絶景というおまけもついてます。)

ただ、平和を愛し、愛を求める少しの希望と、他者への小さな思いやりさえあれば容易にできます。

もちろん、自分には何もないと感じている人にもその扉は完全に開かれています。

 

大仰なことを言いましたが、やることはシンプルです。

今年最後の瞑想会を開きます。どうぞご検討ください。

鍼灸師・ヒーラーの風間真吾と、心のセラピストAZUの主催による瞑想会です。
深い瞑想は私たちを本来の無限の魂の意識へと呼び戻してくれます。
私たちの施術、セッションの根幹をなす瞑想の時間をご一緒にお過ごしください。

場所  ルーア心のセラピーセッションルーム(南城市知念具志堅34-4)
日時  2018年12月23日㈰ 午前10時から12時
ご参加費  1500円
内容  リラクセーション、ヒーリング、ボイスヒーリング、誘導瞑想、瞑想、経絡体操、シェアリング、質疑応答
定員  6名様まで(参加者おふたりさまから催行いたします)
お申込み  お電話かe-mailで、お名前と、初めての方はお電話番号を添えてください。✆ 098-928-3925 ✉ ruach@live.jp
締切  前日18時までにご連絡ください。

※駐車場はございますが、狭めのためお乗り合わせてのご参加は歓迎です。
※お電話かメールにてご連絡ください。よろしくお願いいたします。

感謝とともに

AZU拝

ただ幸せのため

スピリチュアルとカテゴライズされるものの中にいろいろなものがありますが、ほんものをどう見分ければいいか、最近簡単なことに気づきました。

 

結局、真理はとても単純です。すべては等しく良きものであるからすべてを良き事へ導くということです。真理は神が創ったままの良きところへ私たちを導く道です。ですからその真理からくるものはその理にかなっているし、そうでないものは、二元性の視点に囚われています。

 

たとえば自分のルーツやアイデンティティーをたどる意味とは、すべてを受け入れ供養し感謝と解放、つまり統合へと向かうみちすがらのものですが、今がこうなってしまったことへの言い訳や自己弁護のための理由としてしまうと、それは利己心を助長し分離の方向へ向かわせます。昨今自己肯定は良いこと必要なことと言われていますが、自己弁護、利己心と紙一重です。

 

真の自己を見出し肯定することが人を幸せにするのであって、肉体の、この世の価値基準に沿った自己を肯定しても意味がありません。それは弱肉強食の社会で一時的に少しタフになるくらいのことに過ぎません。

 

多くの人が、人の作った価値基準に自分を合わせることに必死なのです。周囲の意に沿わなければ、周囲の要求に応えなければ、認められなければ、理解されなければ。それに反発すると今度は、自分を通すことに必死になります。それが自己肯定が必要という価値観につながっています。

 

でもそれは同じ綱を引っ張りっこしているだけです。つまり二元性のどっちかにいつも傾いているのです。すると今度は、真ん中でいよう、という気持ちが表れて、なにも示すことができない自分になってしまいます。

 

完全主義の人は特にそうだと思いますが、いつもこうやって、この世の基準の中で完全な自分を求めます。だから本当に生きづらいのです。そうなると今度は完全主義を直そう、いい加減になろう、という発想に転じていきます。また引っ張りっこです。

 

それを自己探求だと称し、いつかこの世で自分の落ち着ける場所、誰かが認めてくれ、分かり合えて安心できる場所があるのではないかとさ迷っています。そのさ迷っている人を今度は地に足がついていない、とスピ用語で括っています。

 

では地に足がつくように、グラウンディングする、あちこちの神様を巡って歩く。スピリチュアルのワークを梯子する。でも満たされない。自分の無価値観がぬぐえない。

 

そんなことをしているより、善行、ボランティア活動でもしたほうがいいのではないかと参加してみると、そこでも結局人間関係についていけない。やっぱりここじゃないのかもしれない。自分にはまだみつかっていない才能や使命があって、それを発揮すれば安住の場所に出会えるのではないか。

 

こういう思考をしていると、エネルギーはどんどんこんがらがっていきます。チャクラを見るとぐにゃーとねじれた不思議なブロックがかかっていて、誰からもつっこめないような自己完結のかたちをとっていたりします。

 

解決法は単純です。それらはすべて、意識が外、つまり物質に向いているだけなのです。スピリチュアルだ、自己探求だと思っているからそんなはずはないという盲点になっていますが、内面には向いていないし、あるものを見ないで、ないものを見たがっている状態なのです。それが偽スピリチュアルです。

 

スピリットというのは、実在のことです。真実とは、事実なのです。でも私たちの肉体の目、肉体の感覚はいつも、過去に視点があり、今を過去の延長や集積と認識しています。今を見ていないのです。

 

だから、今に戻ってくることが必要です。今に戻るというのは、肉体の誤解を解いて真実に戻ることです。言い換えれば、神が創ったままのほんものの世界に戻ることです。そのためには、自分という存在に気づかなければなりません。自分こそがスピリットなのだという真実に。スピリチュアルのワークはそのためにだけ利用してください。

 

あたまとからだにそのことを認めさせてあげるのに時間がかかる人もいます。でもまずどうあれやらないと始まらないのが瞑想です。

 

しかし昨今またそこにも罠があります。この世の価値基準に合った仕様に自分を改造するための手段としての瞑想が大流行です。エゴを強靭にするために瞑想するという発想です。

 

まず、神を求めてください。あちこちの場所ではなく、自分の心という寺院の中に。その寺院に住まわれている神を礼拝するため、瞑想してください。そうすると人生に必要なものが差し出され、或いは光が当たってきます。在るものが見えてきます。自己探究、自己発見、自己啓発、自己表現、すべてはその「真の自己」からくるものです。

 

そうするとあらゆる場所に、神聖とされる場所でもそうでない場所でもすべてに、神をみつけることができるようになります。この世がその時初めて、神の創った姿として、あなたの霊的(スピリチュアル)な目で見えるようになります。

大師の愛を体感する旅

実はお休みをいただいて、夫婦で高野山へ行ってまいりました。少し前にお客さまからうかがって興味が出て調べるうちに、これはぜひとも行きたいと思い、思い切りました。ふもとではなく、お寺の宿坊に3泊しました。人に話すと、え?他にはどこも行かないの?と言われるので、どうやら少々変わったプランだったようですが。

 

本当に良くて良くて、滞在中からまた来たい、とリピート確定認定したほど。これを文章にするのが難しくて1週間寝かしましたが、やはり無理です。が、無理なりに少し書きます。

 

まず、泊まったのは大円院というお寺に2泊。3泊目に普門院です。宿坊と言えば昔、劇団時代に、長野のお寺に合宿して集中稽古をしたことがありました。よくもあんな体験させてもらったと時々思い出すのですが、その時は大広間で稽古し雑魚寝でしたが今回の宿坊は全然違って、簡素な旅館の泊まり心地。しかし随所に歴史と品格の重みを感じます。

 

お寺ならではのすばらしさの一つが、朝のお勤めです。

大円院のお勤めは朝5時50分から7時15分頃まで、役1時間半にわたります。僧侶のお経と講話、途中お焼香と最後にご本尊の阿弥陀如来を礼拝します。自由参加とのことですが、これを逃すわけがありません。3回とも出席いたしました。

 

大円院で、おそらく私と同世代の、副住職と思しき僧侶からのお話。

「時代が変わり環境が変わっても一つだけ1200年変わらないものがあります。それがこの、毎朝唱えるお経です。」

この一言から私が感じたのは、人が意志とからだを通じて寸分たがわず引き継いできたものの重みです。修行の意味を思いました。その行とは、自分を脇にどけて、自身の中心の座を神仏に明け渡すことのように思いました。

 

真理を純粋なまま運ぶ器へと自分を磨き清めるため、その修行は必要とされるのです。決して自分が高みに上るためでもなにかを極めるためでもなく、無為な器となり、内にある光が世を照らしやすくするよう自分が邪魔をしないこと。その光を保つことが、自分の身を捧げることの目的なのだ。そう感じました。

その目的は、神仏への愛、生きとし生けるものの背後にある神への愛だけのように思います。

 

もう一つ心に刺さった言葉がありました。

仏道は常に、人が誰かを思い供養する思いに根差しています。」

人が人を思う、体温のある愛を、そこに強く感じました。

 

旅への出発の直前、大好きなスリ・ダヤ・マタの著書「only love~愛だけが」のページを神託的にぱっと開いてそこにあったメッセージがまさに旅にリンクしていました。

大師の亡き後、教えをどのように引き継ぐべきか、師のパラマハンサ・ヨガナンダに尋ねると、「私亡き後、愛だけが、あなたがたを導くだろう」と師が答えるのです。

 

宿坊に着いて、お部屋のお掃除やお布団の上げ下げやお茶や食事の用意をすべて僧侶がしてくれているのになんとなく申し訳ないような気持ちがもたげていたとき、ふとこの一説を思い出しました。

 

すべての人の奥に神をみつけ、その神への愛を生きることこそが本当の修行なのではなかったか。僧侶が私たちのお世話を通してそれをみつけ行ってくださるのはそれもまたすばらしい行に違いない。そう思った瞬間、すべてはそれなのだ、という光が広がった思いがしました。

 

自分を探究するほどに、私たちは当たり前のことのなかに真理を見るようになります。あいさつや、買い物や、日常と言われるやり取りの中にも。

 

場所も時間も違えど、大師と呼ばれる人の役目はいつも自分という器を最大限に神に明け渡し、その愛に生きることなのだろうと、そしてその意志は、肉体を超えて生き続け、人の心を照らすものなのだということを、まざまざと見知った、そんな貴重な旅でした。


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