昨日で53歳になりました。ここまで生かしてくださりたくさんの価値ある体験と学びをさせてくださった神とその神を宿すすべての仲間に感謝します。
あなたは生きているだけで価値があると思えますか?
すべての人がそうだと思えますか?
そういう気分になれる一瞬も人生にはあります。そしてそれはすばらしい気分です。
誰もがそのすばらしい気分が続くことを願っているのではないでしょうか。
私は自己意識の癒し、浄化、解体ということに長年取り組みました。そして苦しみの原因は自分の自我の思い込みによるものだということがわかりました。
自我の思い込みというのは、単に特定のものごとに対する考えでも、頑固とかそういったイメージのものではありません。
自分のアイデンティティとも重なるような、自然で当然のように自分を形成している概念をも含みます。
そしてさらにそれは通常では良いと思われているもの、つまり自分という個体を守るために存在しているものさえも含みます。
それは一時的に、ある状況においては正義でも、同時に自分をその枠の中に押し込め縛る概念です。
そしてそれがあるがゆえに自分を許せなかったり、同時に周辺他者を受け入れられなかったりします。
そして人生経験を積んで賢くなるほど、つまり学習して回避したり防御したりを重ねるうちにどんどん強固になるものです。
自我の思い込みは、この世は確定しているものだという感覚をもたらします。なぜなら自我はこの世を「自分とその他の世界」というふうに認識させ、その他の世界は既存のものであり、自分がそこに交わるためには自分が既存のものに合わせたり馴染んだりしなければならないという奇妙な認識をもたらすのです。
なぜなら自我の知っていることとは常に過去、つまり既存なのです。
ですから自我の生き方は、既存のものに染まっていくことです。
世の中で現状維持が良いことというふうに感じさせるのはこういう自我の性質からきていると理解できます。その目的は自己保存です。
一方霊的成長とは、自我が内なる神を知る旅です。神は無限であり、すべてであり、ひとつです。神は最初も終わりもなく、完全です。自我が神を知ろうとするということは、既知の概念を手放す旅でもあります。
無限ですべてでひとつで初めも終わりもなく完全なものが神であるとするなら、すべての存在の内に神があるのであり、すべての存在は霊的成長をしているはずです。ただ、無意識であればその成長は極めてゆっくりであり、回り道をし、時には暴走もします。
ですから私たちがその道を快適に歩むためには、意識的であることが重要です。内なる神とともにあることをどんな瞬間にも思い出し、その導きに耳を澄ませ、感謝を伝え、意図的に選ぶ生き方、つまり魂(内なる神の質を帯びた個々の生命の本質=愛)を前に出す生き方をすることで、人は初めて自分の生きる価値を実感できるようになるのだと思います。
そうして初めて、すべての人が生きる価値があると確信できるのではないでしょうか。
魂が前に出ていない人はすなわち、自我が前に出ています。人間が自然界で生き残ったのは本来助け合いができたからなのですが、自分(のチーム)対それ以外という自我の捉え方ゆえに、よりパワーを得ようという欲に歯止めがありません。
内なる神というのは、いかなる地上の派閥や団体の考え方とも克ち合うことはありません。なぜならそれは被造物の創り主そのものだからです。摂理や原理そのものでありそれをも創った主が内なる神です。
それが在る、と理解すると、私たちの脳は飛躍的に世界を理解するようになります。
破綻無き原理がわかります。
なぜ、人が争うのか、なぜ、価値が食い違うのか、対立が起こるのか、それはモラルとかルールでは説明しきれるものではありません。根源なる神の在り方に照らすとすべてに答えがあります。その時、あらゆる対立に和解と統合と前進という道が開かれます。
なぜ?という問いをやめないでください。しかしなぜ?と問いかけたからには必ず聴く耳を持ちましょう。聴く耳を持つということは、あなたの心が開いているということです。
開いているために私たちは自分の自我の思い込みの混乱を解いてあげなけばなりません。
多くの人が、心を閉じたままなんでなの?と叫んでいます。そして自我からの答えを待っています。それでは苦しみは決して終らないのです。
なにひとつとして無駄に存在しているものはありません。すべてには成り立ちがあり仕組みがあります。どうぞその、すべてに愛という解決をもたらす神の破綻無き原理を求めてください。それはあなたの内に確実にあります。