なぜ私はこんなにも「仕組み」のことを伝えたいのだろう。
先日、夫がこう言ってくれた。
「だから結局、仕組みに戻ることができないと本当には学べないんだよね。」
目の前に次々やって来る出来事はみんな違って見える。
でも結局これとあれは同じことをしているだけなんだ、と心でわかることがいわば仕組みに戻っていることだ。
その同じことが本当に価値のあることなのであれば何度も繰り返す意味があるし、価値のないことなのであればそれは手放す必要がある。それが人間の本当の成長であり乗り越えるということの意味だ。
目の前にやって来るものごと自体に意味はない。起こったことに意味はない。
そこからなにを学ぶかだけに意味がある。
しかしそこには幾重もの罠がある。
例えば肉体は「学ぶ」ことを獲得だと自然に認識している。
そして獲得したものに価値があると。
しかし魂は獲得したものを手放して初めて現れる。
意識の仕組みを「本当に」学ぶというのは、神に還る道を歩くことだ。
私たちは身につけたものをまとったままそこに還ることはできない。
まとったまま、愛の姿は見えない。そのまといには恐れと攻撃という反応に基づいた鍛錬の痕跡が綿密に織り込まれているからだ。
しかし本当に観たいとまず望むことができたなら、私たちはまといを手放す機会を神から与えられる。
しかしそれは自我から見れば、喪失であり天罰であるかのようにしばしば見える。
あらゆる行いの奥にある原動力は、愛か恐れかのどちらかを機動力とするが、自我はその両者があたかも混ざり合って存在するかに見せかける。
真理(神)はそれを完全に分離させ、自分に属さないものは即ち存在しないという正体を明確に見せてくれる。
愛と恐れは明確に別の仕組みによって動かされているが、出来事や形という事象を見ただけではそれを明確に仕分けることはできない。
肉体の目、肉体の思考ではそれをわかることはない。
心に降りて自我を眺めることでしかそれはできない。
心に降りて、そこに在る神を信愛することなしには、本当のことはわからない。
「わからない、と言えるようになった」と先日の講座で受講者さんから伺うことができた。
その言葉に深い喜びを感じた。神から与えられる奇跡を直接体験したもの同士の共感。
神とともに歩もうとすればするほど、私たちにはなにも知らない、なにもわかっていないことが骨身に染みる。そして、すべてのきょうだいになんの違いもないことに気づく。
特別なものは何一つとして存在していない。
すべてが仕組みの中にものの見事にきれいに収っている。
ゆえに、恐れるべきものはない。
そこに、初めて原初から一つも損なわれることのなかった完全な愛を見つけることができるのであり、自己がそれであるがゆえに他者のそれぞれのすべてがそれであることを信頼することが可能になる。
しかしながら自我の罠は、違いというものが存在していることを認識させようとする。
違いをみせつけ、神の法に例外があるかように見せかけ、神の不完全さを証明しようとする。そうやって自我の存在価値を認めさせようとするのだ。
それゆえ、他者への信頼の前に真の自己、即ち神への信頼が必須である。
ただひとつの唯一でありすべてである神への信頼が、自我の見せる違いという罠から目覚めさせてくれる。
謙虚さというのは神の前でその光に晒され包み隠さない心からしか滲んでこない。
獲得の道を歩む人からは滲んでこない。
自我の価値の証明に夢中の人からは滲まない。
神の前に降伏した自我からしか滲まない。
神への服従は同時にすべての神の子に仕えることを意味する。
なぜなら神の道はすべての神の子が神の元に還りひとつとなることだから。
それは決して他者の自我に合わせることでも持ち上げることでもへりくだることでもない。自我を取り消し自己への認識を修正することを助ける道だ。
しかしながら、神から直接与えられることをよく知らない自我は、失うことをとても恐れているので、神を知ったつもりでも次の瞬間に防御態勢に入っている。
そして獲得したことにより特別性を見出し、その特別性に自己を守らせる。
意味のない景色に酔わされ、この景色とあの景色の違いやどちらかを選ぶことにに価値があるとみなしているのが自我だが、実際には愛としてのあなたがいる景色にこそ初めて意味が生まれる。
なのであれば、まず神を選ぶことこそが、あなたが体験するあらゆる出来事に価値と意味をもたらす。
愛は神の中にしかなく、それ以外の愛はない。
私たちが神の被造物であるがゆえに、私たちは愛を選ぶことができる。
しかし今この瞬間に選ぶことにしかそれは存在できず、時間の中にそれは存在できない。
なぜなら自我は時間の中に生きているのであり、肉体は時間の中にしか存在できないからである。
私たちは心ゆえに神の子なのであり、その心でしか父を、母を、認識できない。
肉体の支配から自由になることは愛によってしか成し得ない。
心が肉体の法の支配から自由になるには、それが無意識的に働いていることに気づき、それを離れることを繰り返し習慣づけるしかなく、その新しい習慣を心に根付かせるのは神の法の下で行う以外不可能である。
神を最初に選ぶなら、その前進と進化の道すがらのすべてが愛に染まる。
神は導きによってそれを私に教えた。
「究極の意識の仕組み学ぶ奇跡の講座」と「ヒプノセラピストのための講座」、受講をお選びくださったみなさま、本当にありがとうございます。
今期、あとおひとりさまのみ受け付けさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。