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私が見た真実、2

ざっくりと前回の記事の続きです。

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自分と向き合うというのはなにをするのか。

意識を探究する意味とはなにか。

 

量子物理学が伝えるこの世の仕組みがそうであるなら、私たちがなにをどう認識するかがすべてということになります。

 

「引き寄せ」は投影の仕組みの一部を取り出して、それが自分に利がある作用をするように見せかけたものです。

 

しかし昨日も書きましたが、もし一元の、つまり対極のない神(=愛)以外のものを引き寄せようとするなら、もれなく裏側が付いてきます。

 

そればかりか、願望の通りになっている間は人は疑問を抱きません。

何の価値も意味もないものに満足した気になっています。

何かを自分の意志の力で少しづつでも手に入れたと実感している間に、私たちは幻想に自分を費やしてしまいます。

 

そしてある時、ちょっと疲れを感じて、或いはなにかがちょっとうまくいかない時、

 

あれ?自分はなにをがんばっているんだろう。

進歩どころかむしろすり減っている。

持ち時間も若さもかしそめの美貌も能力も、全部使い捨てだ。

というか自分という存在が使い捨てなんだ。

自分を使い捨てにしてまで生きる意味ってなんなんだ。

ただ生存のために自分はもがき続けてきたのだろうか?

 

それが自分の、生物としてのピークを明らかに過ぎた頃に感じた、人生で何度目かの絶望でした。

他人の目には絶対にそう見えなかったと思います。

でも自分はそうやって、静かに溺れていました。

 

結局のところ、私はずっと、愛を求めてきたというのに、その求めている愛についてはほとんど知らなかったのです。

これは私の真実ですが、世界の真実でもあると思います。

そして、これをがんばれば、これを乗り越えれば、なりたい自分になれば、そう、ここが一番かもしれません。

「なりたい自分になれれば」そんな自分にふさわしい愛が与えられると無意識に信じていたのだと思います。

 

愛は、その他のすべてと区別されるべきものです。

そうすると「じゃあその愛ってなに?わからないのにどうやって区別するの?」

と思うかたも多いでしょう。

完全に愛じゃないものならなんとなくはわかるけど…という人も多いでしょう。

 

その前に、この世のあらゆる問題は愛の欠如である、と言われればなんとなく真実な気がしますか?

私は真実だと思います。

なのに、愛以外のものですべてを解決しようとするのが自我です。

 

私たちが生きるには衣食住が必要で、まずはそれを得られれば生きられると考えます。

子どもにはそれを与えることが責任と考えられています。

 

食べるものが私たちを作っている、という考えをなにか新しいすばらしい考えのように扱われているのをよく見かけます。

私たちは親なり社会なりが与えた食べ物を無意識に食べて育ちますから、そこから意識的になることは前進かもしれません。

でももっと、そこから進まないとそれは真実とは言えません。

食べ物が作るのは肉だけです。

 

食べ物よりは思いのほうが強力だと思いませんか?

 

私は30代の頃、怒りながらコーヒーを飲むとからだに即ぶつぶつが出るという時期がありました。

今もほぼ毎日コーヒーを飲んでいますが、コーヒーを毒にするか薬にするかは私の思いが決めているとわかります。

心が攻撃しているか感謝しているか。コーヒーはその想念に従って作用します。

例えはいくらでもあげることができます。

 

私は私を肉体ではなく意識だと認識していますので、体に取り入れるものをすべて善きものとしていただくように、しかしそれ以上のものではないという程度に「認識して」います。

何かを食べて罪悪感を抱くことはありませんし、もしわずかにそう感じたとしても、それは真実ではないと認識しています。

そうすると、ただ感謝するだけでよくなります。

その感謝は、私という存在を創り出した源、つまり神=愛に捧げられます。

肉が生かされることへの感謝ではありません。

私が真実を教わっていることによって、煩わされず、恐れず、平安の中にいられることへの感謝です。

 

まず最初に神の天国を選びなさい、そうすればすべてが与えられる(聖書)の意味はこういうすべてに完全に反映されます。

そして、二つの神に仕えることができないという聖書の言葉を、愛とそれ以外のことのすべてを仕組みから滾々と教えているのが奇跡講座です。

 

自分のからだに良い食べ物を世界に探し回るのではなく、攻撃する(恐れる)心とそれを癒すことに向かえば、ただ愛でいることができるようになります。

からだは愛を乗せて、乗り物として、必要(最低限)なことをするだけでいいのです。

乗り物のメンテも最小限で済みます。

 

私たちはより良い食べ物を求め、或いは生きづらいこの世界を少しでも良くするために、と、いつも愛以外のもので解決できる道を探し回っています。

世界に愛が足りないのが悪い、と攻撃を正当化したりもします。

 

そして疲れると愛以外のもので自分を慰めようとします。

気晴らしするくらいの権利を持っているんだから…と、愛以外のなにかに依存することで、です。

それが世間的にアウトなものが対象なのか、建設的に見えるものが対象なのか、の違いがあるだけです。

 

恋愛とか、食べ物とか、ゲーム、仕事、建設的活動とかはセーフだし、社会的成功などとなればほとんどすべての人がうらやみます。

お酒や嗜好品も、見かたによっては推奨されています。

これがリスクを伴う買い物、恋愛のつもりが不倫となればアウトですし、ギャンブルや違法薬物やいじめや虐待となれば許されない、なぜ?と人は言います。

でも、対象がなんであれ、愛以外のありとあらゆる依存には、必ずその背後に無意識的攻撃という動機があります。

 

そのすべてが自我のやり方です。

 

その対象がいけないのではありません。

でも、愛をみつけないままになにを追いかけてもなにを手に入れても、私たちは欠乏し飢餓状態にあります。

そして手に入れた次の瞬間、その欠乏と飢餓は必ず増大します。

愛以外に私たちを満足させるものはないのです。

 

究極の解決をみつける方法が自分と向き合うこと、心をみつめること、なのです。

外ではなく内側を向くこと、でもいいです。

無いところを探すのではなく、あるところを探すことです。

 

私たちの混沌の旅が長引くのは、無いところを探し回っているからという理由だけです。

そして自我はそれをやりたいのです。

 

私には(私の大切な家族の〇〇)にはこれが欠けている。

だからそのために社会にこうなってほしい。

これがそのようになるには途方もないちからが必要になります。

 

でも、欠乏は一つもないと見る時、完全の連鎖が起こります。

欠如して問題となるのは愛だけですが、探すべきところを探せばそれはあります。

愛とともに人が語る時、行う時、伝える時、それは光より早く伝わるのです。

 

持っていないかに見えたものは、持っている必要が本当になかったからだ。

そしていらないものを必死に求めていたゆえに、持っているものに気づいていなかったからだ。

そういう理解が訪れます。

これが、導きを信頼する新たな「見かた」です。

 

そしてそれは、自分に対する真実を理解しようとする時、大いなるものに委ねることによって訪れる奇跡です。

 

7月19日㈬11時からの定期瞑想会はお席充分にございます。

ご参加をお待ちしています。

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個人セッション、個人講座も随時承ります。

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