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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

ただ幸せのため

スピリチュアルとカテゴライズされるものの中にいろいろなものがありますが、ほんものをどう見分ければいいか、最近簡単なことに気づきました。

 

結局、真理はとても単純です。すべては等しく良きものであるからすべてを良き事へ導くということです。真理は神が創ったままの良きところへ私たちを導く道です。ですからその真理からくるものはその理にかなっているし、そうでないものは、二元性の視点に囚われています。

 

たとえば自分のルーツやアイデンティティーをたどる意味とは、すべてを受け入れ供養し感謝と解放、つまり統合へと向かうみちすがらのものですが、今がこうなってしまったことへの言い訳や自己弁護のための理由としてしまうと、それは利己心を助長し分離の方向へ向かわせます。昨今自己肯定は良いこと必要なことと言われていますが、自己弁護、利己心と紙一重です。

 

真の自己を見出し肯定することが人を幸せにするのであって、肉体の、この世の価値基準に沿った自己を肯定しても意味がありません。それは弱肉強食の社会で一時的に少しタフになるくらいのことに過ぎません。

 

多くの人が、人の作った価値基準に自分を合わせることに必死なのです。周囲の意に沿わなければ、周囲の要求に応えなければ、認められなければ、理解されなければ。それに反発すると今度は、自分を通すことに必死になります。それが自己肯定が必要という価値観につながっています。

 

でもそれは同じ綱を引っ張りっこしているだけです。つまり二元性のどっちかにいつも傾いているのです。すると今度は、真ん中でいよう、という気持ちが表れて、なにも示すことができない自分になってしまいます。

 

完全主義の人は特にそうだと思いますが、いつもこうやって、この世の基準の中で完全な自分を求めます。だから本当に生きづらいのです。そうなると今度は完全主義を直そう、いい加減になろう、という発想に転じていきます。また引っ張りっこです。

 

それを自己探求だと称し、いつかこの世で自分の落ち着ける場所、誰かが認めてくれ、分かり合えて安心できる場所があるのではないかとさ迷っています。そのさ迷っている人を今度は地に足がついていない、とスピ用語で括っています。

 

では地に足がつくように、グラウンディングする、あちこちの神様を巡って歩く。スピリチュアルのワークを梯子する。でも満たされない。自分の無価値観がぬぐえない。

 

そんなことをしているより、善行、ボランティア活動でもしたほうがいいのではないかと参加してみると、そこでも結局人間関係についていけない。やっぱりここじゃないのかもしれない。自分にはまだみつかっていない才能や使命があって、それを発揮すれば安住の場所に出会えるのではないか。

 

こういう思考をしていると、エネルギーはどんどんこんがらがっていきます。チャクラを見るとぐにゃーとねじれた不思議なブロックがかかっていて、誰からもつっこめないような自己完結のかたちをとっていたりします。

 

解決法は単純です。それらはすべて、意識が外、つまり物質に向いているだけなのです。スピリチュアルだ、自己探求だと思っているからそんなはずはないという盲点になっていますが、内面には向いていないし、あるものを見ないで、ないものを見たがっている状態なのです。それが偽スピリチュアルです。

 

スピリットというのは、実在のことです。真実とは、事実なのです。でも私たちの肉体の目、肉体の感覚はいつも、過去に視点があり、今を過去の延長や集積と認識しています。今を見ていないのです。

 

だから、今に戻ってくることが必要です。今に戻るというのは、肉体の誤解を解いて真実に戻ることです。言い換えれば、神が創ったままのほんものの世界に戻ることです。そのためには、自分という存在に気づかなければなりません。自分こそがスピリットなのだという真実に。スピリチュアルのワークはそのためにだけ利用してください。

 

あたまとからだにそのことを認めさせてあげるのに時間がかかる人もいます。でもまずどうあれやらないと始まらないのが瞑想です。

 

しかし昨今またそこにも罠があります。この世の価値基準に合った仕様に自分を改造するための手段としての瞑想が大流行です。エゴを強靭にするために瞑想するという発想です。

 

まず、神を求めてください。あちこちの場所ではなく、自分の心という寺院の中に。その寺院に住まわれている神を礼拝するため、瞑想してください。そうすると人生に必要なものが差し出され、或いは光が当たってきます。在るものが見えてきます。自己探究、自己発見、自己啓発、自己表現、すべてはその「真の自己」からくるものです。

 

そうするとあらゆる場所に、神聖とされる場所でもそうでない場所でもすべてに、神をみつけることができるようになります。この世がその時初めて、神の創った姿として、あなたの霊的(スピリチュアル)な目で見えるようになります。

大師の愛を体感する旅

実はお休みをいただいて、夫婦で高野山へ行ってまいりました。少し前にお客さまからうかがって興味が出て調べるうちに、これはぜひとも行きたいと思い、思い切りました。ふもとではなく、お寺の宿坊に3泊しました。人に話すと、え?他にはどこも行かないの?と言われるので、どうやら少々変わったプランだったようですが。

 

本当に良くて良くて、滞在中からまた来たい、とリピート確定認定したほど。これを文章にするのが難しくて1週間寝かしましたが、やはり無理です。が、無理なりに少し書きます。

 

まず、泊まったのは大円院というお寺に2泊。3泊目に普門院です。宿坊と言えば昔、劇団時代に、長野のお寺に合宿して集中稽古をしたことがありました。よくもあんな体験させてもらったと時々思い出すのですが、その時は大広間で稽古し雑魚寝でしたが今回の宿坊は全然違って、簡素な旅館の泊まり心地。しかし随所に歴史と品格の重みを感じます。

 

お寺ならではのすばらしさの一つが、朝のお勤めです。

大円院のお勤めは朝5時50分から7時15分頃まで、役1時間半にわたります。僧侶のお経と講話、途中お焼香と最後にご本尊の阿弥陀如来を礼拝します。自由参加とのことですが、これを逃すわけがありません。3回とも出席いたしました。

 

大円院で、おそらく私と同世代の、副住職と思しき僧侶からのお話。

「時代が変わり環境が変わっても一つだけ1200年変わらないものがあります。それがこの、毎朝唱えるお経です。」

この一言から私が感じたのは、人が意志とからだを通じて寸分たがわず引き継いできたものの重みです。修行の意味を思いました。その行とは、自分を脇にどけて、自身の中心の座を神仏に明け渡すことのように思いました。

 

真理を純粋なまま運ぶ器へと自分を磨き清めるため、その修行は必要とされるのです。決して自分が高みに上るためでもなにかを極めるためでもなく、無為な器となり、内にある光が世を照らしやすくするよう自分が邪魔をしないこと。その光を保つことが、自分の身を捧げることの目的なのだ。そう感じました。

その目的は、神仏への愛、生きとし生けるものの背後にある神への愛だけのように思います。

 

もう一つ心に刺さった言葉がありました。

仏道は常に、人が誰かを思い供養する思いに根差しています。」

人が人を思う、体温のある愛を、そこに強く感じました。

 

旅への出発の直前、大好きなスリ・ダヤ・マタの著書「only love~愛だけが」のページを神託的にぱっと開いてそこにあったメッセージがまさに旅にリンクしていました。

大師の亡き後、教えをどのように引き継ぐべきか、師のパラマハンサ・ヨガナンダに尋ねると、「私亡き後、愛だけが、あなたがたを導くだろう」と師が答えるのです。

 

宿坊に着いて、お部屋のお掃除やお布団の上げ下げやお茶や食事の用意をすべて僧侶がしてくれているのになんとなく申し訳ないような気持ちがもたげていたとき、ふとこの一説を思い出しました。

 

すべての人の奥に神をみつけ、その神への愛を生きることこそが本当の修行なのではなかったか。僧侶が私たちのお世話を通してそれをみつけ行ってくださるのはそれもまたすばらしい行に違いない。そう思った瞬間、すべてはそれなのだ、という光が広がった思いがしました。

 

自分を探究するほどに、私たちは当たり前のことのなかに真理を見るようになります。あいさつや、買い物や、日常と言われるやり取りの中にも。

 

場所も時間も違えど、大師と呼ばれる人の役目はいつも自分という器を最大限に神に明け渡し、その愛に生きることなのだろうと、そしてその意志は、肉体を超えて生き続け、人の心を照らすものなのだということを、まざまざと見知った、そんな貴重な旅でした。

最上級のほんものを求めて

みなさんこんにちは。沖縄心のセラピストAZUです。

今週前半に休暇をいただいていましたが、金曜日より通常通り営業しております。そして今日は瞑想会を開かせていただきました。朝から刻々と変わる自然の饗宴のなか、今日も新しい喜びを味わわせていただき、ご参加のみなさん、本当にありがとうございました。

 

さて、人生は選択の連続です。癒しの必要性は、間違った選択、つまり恐れに基づいた選択や、恐れから選択ができず、為すべきことが進まないことを助けることのようにも思います。

 

自分は早くに意志を持って選択をし、その道が実を結ばないという体験をしております。

 

自分が自己探求をがんばったのは当初自分の望みを叶えるためだったはずですが、今となっては自分が知っている以上の望みというものが人にはあるのだなと思います。

 

しかしその場合の選択の呼吸は少しばかり難しいものだと思います。自分で知っている以上の良き事を受け入れるには、自分以上の意識、自分以上の存在を知らなければなりません。そうでないなら、ただ偶然に流されるのと違いがなくなってしまいます。

 

人は自分(のやり方、考え方)にばかりこだわってしまうと、自分以上の存在から差し出された道が目に入りません。かといって与えられるのを待ってばかりいて自分から前に向かって掘り進めることをしなければ、開通まであと10センチのトンネルの壁を見過ごしてしまうかもしれません。

 

たくさんの方と向き合わせていただいていると、目の前のその方の状態というものがよく見えるようになってきます。人間が問題の壁に当たる状況は様々ですが、問題の根っこには共通した状態があります。

 

それは正邪や善悪にかかわらず、私たちのハートが閉じてしまうことです。

 

人の気持ちに敏感に答えようとする人、感覚が敏感な人は特に、様々な外側の状況に揺れます。傷つきやすかったり動揺しやすかったりして当然です。しかしその時ハートを閉じて自分を守ろうとすることで、愛や神聖な波動からも遠ざかってしまうことがあります。

 

人間にとって本当に苦しいのは実はそういうときではないでしょうか。自分という存在からの光が閉ざされ、汚されたような感じがするときです。

 

そうなってしまうと、なにをどう理性的に考えたとしても、良いほうへ行くとは感じられなくなるのです。

 

自分の内側にある聖なるちからを、実はみな感じたいのではないでしょうか。その欲求を人はいろいろな形でかなえようと努力しているように思います。

 

愛されること、手に入れること、認められることなどによって。

 

私たちは生まれてすぐに、この欲求を両親に、特にお母さんに求めます。親から与えられる「あなたは大切な、唯一無二の存在よ」というメッセージを。人生の初期にそれを得られない体験は、私たちになにかしらの不安さ、恐れを抱かせます。

 

初期に刻まれたその不安さ、恐れはなかなか払拭しにくいものです。それと向き合うということはかりそめではない恒久的な「ほんものの平安、ほんもののしあわせ」を求めることなのだと私は思うのです。

 

ですから、人生の初期設定がどうであれ、ほんものを求めるに至った人は幸いです。なぜなら、求める者に与えられるというのが最高次元での法則だからです。

 

欠乏しているのに満ちているふりをする必要など私たちにはありません。最上のものを今すぐに求めていいのです。そうしているうちに、本当に大切なものはすでに与えられていたという真実がだんだんと見えてくるのだと思います。

 

知っている真実を体験する喜びを生きるのが、人生なのかもしれません。 


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