みなさんこんにちは。沖縄心のセラピストAZUです。
今週前半に休暇をいただいていましたが、金曜日より通常通り営業しております。そして今日は瞑想会を開かせていただきました。朝から刻々と変わる自然の饗宴のなか、今日も新しい喜びを味わわせていただき、ご参加のみなさん、本当にありがとうございました。
さて、人生は選択の連続です。癒しの必要性は、間違った選択、つまり恐れに基づいた選択や、恐れから選択ができず、為すべきことが進まないことを助けることのようにも思います。
自分は早くに意志を持って選択をし、その道が実を結ばないという体験をしております。
自分が自己探求をがんばったのは当初自分の望みを叶えるためだったはずですが、今となっては自分が知っている以上の望みというものが人にはあるのだなと思います。
しかしその場合の選択の呼吸は少しばかり難しいものだと思います。自分で知っている以上の良き事を受け入れるには、自分以上の意識、自分以上の存在を知らなければなりません。そうでないなら、ただ偶然に流されるのと違いがなくなってしまいます。
人は自分(のやり方、考え方)にばかりこだわってしまうと、自分以上の存在から差し出された道が目に入りません。かといって与えられるのを待ってばかりいて自分から前に向かって掘り進めることをしなければ、開通まであと10センチのトンネルの壁を見過ごしてしまうかもしれません。
たくさんの方と向き合わせていただいていると、目の前のその方の状態というものがよく見えるようになってきます。人間が問題の壁に当たる状況は様々ですが、問題の根っこには共通した状態があります。
それは正邪や善悪にかかわらず、私たちのハートが閉じてしまうことです。
人の気持ちに敏感に答えようとする人、感覚が敏感な人は特に、様々な外側の状況に揺れます。傷つきやすかったり動揺しやすかったりして当然です。しかしその時ハートを閉じて自分を守ろうとすることで、愛や神聖な波動からも遠ざかってしまうことがあります。
人間にとって本当に苦しいのは実はそういうときではないでしょうか。自分という存在からの光が閉ざされ、汚されたような感じがするときです。
そうなってしまうと、なにをどう理性的に考えたとしても、良いほうへ行くとは感じられなくなるのです。
自分の内側にある聖なるちからを、実はみな感じたいのではないでしょうか。その欲求を人はいろいろな形でかなえようと努力しているように思います。
愛されること、手に入れること、認められることなどによって。
私たちは生まれてすぐに、この欲求を両親に、特にお母さんに求めます。親から与えられる「あなたは大切な、唯一無二の存在よ」というメッセージを。人生の初期にそれを得られない体験は、私たちになにかしらの不安さ、恐れを抱かせます。
初期に刻まれたその不安さ、恐れはなかなか払拭しにくいものです。それと向き合うということはかりそめではない恒久的な「ほんものの平安、ほんもののしあわせ」を求めることなのだと私は思うのです。
ですから、人生の初期設定がどうであれ、ほんものを求めるに至った人は幸いです。なぜなら、求める者に与えられるというのが最高次元での法則だからです。
欠乏しているのに満ちているふりをする必要など私たちにはありません。最上のものを今すぐに求めていいのです。そうしているうちに、本当に大切なものはすでに与えられていたという真実がだんだんと見えてくるのだと思います。
知っている真実を体験する喜びを生きるのが、人生なのかもしれません。