AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

あなたの愛とわたしの愛

愛という言葉ほど当たり前で曖昧な言葉はないかもしれない。世界には音楽が溢れ、その歌詞の多くは愛を奏でる。

 

私は心のセラピーと称して仕事をしている。セラピーとは療法であり、治し主は神で治すパワーは愛である。

 

真理の世界では、病気は心にしかない。心因という意味ではなく、心が真実と幻想を取り違えることが病気だという。

その意味は瞑想なしにはなかなかわからない。

 

でも、だから、私は常日頃から神の愛に頼り、その力に介在を願って仕事をする。なるべく自我が神の仕事を邪魔せず光に直接触れることができるように。

 

問いかけをするとき、その言葉がその人の内側で、どのあたりにどう響きどう広がり、或いはとどまり、どんな作用をするのかを注意深く聴く。答えを聞きたいのではなく、その響きを辿ることでその人の内側の地図を見させてもらう。

愛という言葉を使う時はなおさらに注意深く。

 

愛が滞っている場所や、愛を誤解している箇所や、愛を拒絶している気持ちを聴く。そしてその人がどうしてそれーつまり愛をせき止めてまで自己を守ろうとしているのか、その言い分をよく知ろうとする。

 

せき止めているものは、存在の必要性がないと真に自覚するまでそこにとどまるからだ。

 

愛をせき止めてまで自己を守ろうとするその理由は様々だ。それはほとんどの場合、利己的ですらない。それはほどんどの場合、周囲の人ー親や子供などーを守ろうとしたり、嫌な思いをさせたくなかったり、社会の規範に忠実であろうとしたり、誰かを悲しませたくないという理由だったりする。

 

けれど、いずれにせよそれは、恐れによる。好きであるほど恐れも強い。だから人は、好きと愛を、或いは恐れと愛を、取り違えてしまう。

 

身近な人に悲しい思いをさせたくないという理由で自分を生きることを止めている。

周囲に起こることのかたづけが最優先で、自分とともにいる時間さえ見失っている。

 

それは、その犠牲は愛ではないのか。

 

神なしにそのことを説明できない。神があなたを、すべての人を愛しているという前提なしに、なにひとつも解決できない。

 

恐れに結びついた愛を解き放つことが重要だ。

肉体に結びついた心を解き放つことと同様に。

 

愛は恐れない。恐れず信頼しなさい。自分や他人の自我ではなく、その奥に隠れている真の自己を。すべての人の奥に在る真の自己を。

 

どんなに巧妙に複雑に幾重にも覆い隠しても、それは永遠に変わらずに、ただそこに在る。だから、それをみつけなさい。それがどんなに困難でも、不可能ではない。それが実在する真実だから。

 

それが、神であるから。

 

 

私は愛をたくさん体験し、知りたい。多くの人がそう神に告げて、できるだけ神を見失う設定を選んだ。

 

思いつく限り巧妙に複雑に幾重にも、神を覆い隠しまるで闇、まるで地獄、苦しみを感じることさえ許さないような困難を設定し、

 

どのような深い闇からもあなたをみつけることができるようになるレッスン。

 

しかし深い闇でこそはっきりと際立つ光、そしてそこへ引き戻そうと働く強いちから、それこそが愛だった。

 

時には恵まれて優しくて魅力的で、ノーということにすら罪悪感を感じるような設定もあった。

 

その居心地の良いベッドから立ち上がり歩き出すちから、それが愛だった。

 

療法とは、真の療法とは、真実でないものから目覚め、真実を生きるための学び。

無意味なものを手離し、意味のあるものを手に入れるための学び。

 

自分で選んだ、或いは過去に行ったことが引き起こす結果によって創られた設定(カルマ)から自由になるための。

 

生きる意味は単純だ。しかしその単純さを見失う罠は巧妙で多彩だ。とても、私と自我のちからではその罠を逃れることはできない。

 

生きながらに神とともにあること。それがたぶん、チーム人間の共通する使命なのだと思う。

本当にわかっている人とはどんな人?

本当にわかっている人、と昨日書きました。その言葉の意味を少し掘り下げたいと思います。フェイスブックにいただいた共感のコメントが私にヒントを投げかけてくれたからです。

 

本当にわかっている人と私が感じるのは、ずばり「神を内側に見つけて直接体験した人」のことです。たくさん考えたあげく結局当たり前の現実に戻ってきたという意味でも、博識という意味でも、正しい人という意味でもありません。

 

そしてそれを知っている人の言葉には、言っている内容や言葉の示していること以上の計り知れない思いの深さ、強い愛を感じるという意味なのです。それは人の中の中心に触れ、そのほかのものを変えてしまうほどの力を持つのです

 

私自身はたぶん、幼少の頃から、その部分に敏感だったように思います。この人が言っていることの真意はなにか、その奥にある心は何か、ということです。そしていくら言葉上正しかったとしても、何かが引っかかってその言葉を飲み込めないということがよくありました。

 

敬愛するスリ・ダヤ・マタの言葉を引用します。

「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。」

 

この思いなのです。この世では完全主義は直さなければならないものの項目の一つです。なぜならこの世に表れているものの中に完全は絶対にないからです。

 

しかし芸術的、形而上学的な傾向のある人は常に完全を求めます。表現者が完全を求めるあまりこの世の現実から逃避するのはよくあることです。この世に完全な正義や美を求める人もそうでしょう。

 

突き詰めれば突き詰めるほど壁にぶつかります。周囲と摩擦を起こすことも多々あります。

 

完全なものがみつからないという恐れが消え去らない限り、平和はありえません。不完全である限り、いつか迫りくる敵に備えていなければなりません。それがこの世から戦争という現象がなくならない明確な理由なのです。どうせいつか襲われるのであれば、先に仕掛けてしまえばいいし、いつか裏切られるならそもそも仲良くする必要などないのです。

 

しかし完全主義は間違っていません。ただ求める矛先が違っていただけです。そもそも自分の中に完全があるというのに。

 

子供の頃の私が、周囲のおとなたちに求めた完全さ、公正さは常に裏切られました。そして私は長い間いろいろなものに失望し続けました。その失望はとことん私を疲弊させ続けていました。当然ながらなにより一番、自分自身に対して失望していたのです。

 

最近になって時々、こんなふうに言ってくださる方が現れます。

「やっぱりAZUさんは、選ばれた人なんです」「それはきっと、AZUさんだから、そうできたのではないかと思えます」

完全さを見つける前の私がどれだけそういう言葉を欲しかったことだろうと思います。この不完全な世界での希望とは、特別に光り輝いていることなのです。

 

しかし今の私は、私の中の光を見てくださる友人に深い友愛と喜びを感じるとともに、そのことはやはり違うのだと再認識するのです。

 

私が絶望から希望へと再生できたのは、私たちのすべてが不変の完全さの中にいるということを理解できたからなのです。特別や特例がないことこそが救いです。

 

その完全さの中にいるはずの友人が、自分だけはそこにいないと感じて苦しんでいる気持ちが私には本当によくわかります。それは自分の苦しみそのものだからです。

 

多くの求道者や芸術家たちが、人間の限界の壁を越えようと命をかけてきました。その思いを感じると胸がいっぱいになります。つい最近もセッションでそのお話をしました。

 

苦しみという幻想から目覚めるのは、自分のまんなかの最も優しく暖かい静かな場所に戻ったときです。苦しみの果てに見つけるのは「その向こうにあったもの」ではなく、疲れ果てたあげく「帰ってきたおうちにあったもの」です。

 

真の芸術家がその人生をかけて見せてくれるものとは、私たちを疑似体験によってより早くおうちに帰ることに気づかせてくれるものなのです。

 

「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。

でも完全とはなにかを知ることができるのは、私たちの神を知った後なのです。

(スリ・ダヤ・マタ)

 

そしてスリ・ダヤ・マタを勇気づけた言葉を、私自身とすべて同じ源を持つすべての友人に送りたいと思います。

 

「聖者とは、決してあきらめなかった罪人である」。

わかっている人は当たり前のことしか言わない

本当にわかっている人は当たり前のことしか言わない。ということを、つくづく思う。この世には特例なんてなくて、すべては緻密な原則に従って成り立っている。それを認めたくないのが人情なのだろう。特別ななにかでなければ認めてもらえないという社会に私たちは慣れすぎている。しかし特別なものなどなにもない。

 

自分が自分のことで苦しんでいた時の言い分は「わかってもらえない」だった。それは一方的で、実は自分がわかっていなかっただけだ。でも苦しみの中にいると、自分はわかっている、と感じてしまう。それは苦しみという鋳型にはまって、本質的な叡智から離れ、肉体感覚の世界に陥ってしまうからだ。自分の感覚しか感じられないのだ。

 

おまけに苦しい時ほど人は頭を使って自己防衛する。そうすればするほど、外は敵に感じられるし、実際に攻撃を受ける。これが自然の法則なのだ。

 

しかしいったい、苦しい時に自分を開いていられるだろうか。自然の生き物であればそんなことはしない。それは意識的に選ばなくてはできないことだ。意識的に選ぶこと、しかしやろうとしても、苦しみの中にある時の選択肢はどれも防衛的、消極的なものに限られる。それしか見えないのだ。

 

見直すべきは、私たちがそこで無意識に従っているルールのほうだ。無意識のルールの根拠はだいたいいつも、育った環境に即している。そのルールをもっと広く高い境地の視点のものに置き換えてあげるとどうなるだろう。

 

その時、「問題が問題ではなくなる」という奇跡的な解決が起こる。これが言わば神のやり方だ。神は裁きによってではなく成長という神が与えた性質によりすべてとの和解に導く。

 

問題が問題ではなくなって、それでどうなるか。

 

ここからが本当に重要なところだ。

 

私たちはその先を生きることができる。それが、魂として生きることなのだと思う。

 

その場に立たされた人だけがおそらく、これまでと違う見解を見つける。世界への認識を改めることができる。

 

問題に向き合うというのは、その先があるんだということへの入り口なのだ。多くの人が問題を抱え、それをやり過ごすのに必死だ。こんなことに関わっていたら人生を遂行できないと思っている。でも本当は違うのだ。そのことは言葉では言えない。

 

瞑想があなたをそこに連れていく。まずは入り口に立たせてくれる。そして内なる神があなたに語る。

 

あなたが人生で重要だと、或いは重荷だと感じてきたことをすべて引き受けて片付けてあげましょう。

それで、そうしたら、あなたはどう生きますか?なにを選びますか?毎瞬、何を選んでいかに生きますか?

 

そこからあなたの創造が始まる。それは頭で考えたり、肉体で体験することとは全く違うことだ。なぜなら魂がやることだから。

 

癒しの本当の意味を知ってほしい。

それは一時的な快楽とは真逆のものだ。

 

癒しとは、永遠のものへの回帰のこと。

恒久的な平和こそが平安。

 

瞑想は今ある環境から離れ、内なる神というあなたの本質に集中すること。

絶景も特別な準備もいりません。(とはいえルーアには絶景というおまけもついてます。)

ただ、平和を愛し、愛を求める少しの希望と、他者への小さな思いやりさえあれば容易にできます。

もちろん、自分には何もないと感じている人にもその扉は完全に開かれています。

 

大仰なことを言いましたが、やることはシンプルです。

今年最後の瞑想会を開きます。どうぞご検討ください。

鍼灸師・ヒーラーの風間真吾と、心のセラピストAZUの主催による瞑想会です。
深い瞑想は私たちを本来の無限の魂の意識へと呼び戻してくれます。
私たちの施術、セッションの根幹をなす瞑想の時間をご一緒にお過ごしください。

場所  ルーア心のセラピーセッションルーム(南城市知念具志堅34-4)
日時  2018年12月23日㈰ 午前10時から12時
ご参加費  1500円
内容  リラクセーション、ヒーリング、ボイスヒーリング、誘導瞑想、瞑想、経絡体操、シェアリング、質疑応答
定員  6名様まで(参加者おふたりさまから催行いたします)
お申込み  お電話かe-mailで、お名前と、初めての方はお電話番号を添えてください。✆ 098-928-3925 ✉ ruach@live.jp
締切  前日18時までにご連絡ください。

※駐車場はございますが、狭めのためお乗り合わせてのご参加は歓迎です。
※お電話かメールにてご連絡ください。よろしくお願いいたします。

感謝とともに

AZU拝


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