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朝から考えています。
人間はいつもいい人間になろうと努力していたとしても実際は心の中に傲慢や利己心、強欲や冷酷さなどを併せ持っています。私自身、子供の頃からいい人間になりたいと努力していました。かなりおとなびた子供でしたし、頭も良かったのでその頭で考えられることはとことん考えていました。当時描いていたいい人間というのは、正しい人間だったと言い換えることができると思います。もちろん自分なりの美学のもとにですが。
そしておとなになり自分の人生がめちゃくちゃになっていくのを体験して、本当にどこをどのように直していいかわからなかったのです。意識の仕組みという真理にであったのはそのどん底の頃です。
意識というのは根本的な宇宙のエネルギーと同等です。私たちの内面にはその宇宙が在るのです。私が日頃内なる神と呼ぶものです。宙に浮かぶ宇宙ではありません。宇宙意識と言われるもののことです。
それで私は自分のすべきことがわかりました。自分の内側にある、神の性質を阻害しているものを変えることです。上記の傲慢、利己、強欲、冷酷などがまさにそれです。
正しいことを求め従って生きていたつもりだったので、それらの阻害要素を自分がいやというほど持っていることに気づくのは非常に厳しいものでした。しかし仕組みがわかってしまっているので、退くわけにはいきません。そこから逃げても他に施す手がないのです。人生はまだ先が長く、こなさなくてはならない浮世の義務は山積みとなり高い壁となって立ちはだかっていました。自分を食べさせていけるかどうか、というのは非常に大きな問題でした。
自分の人生をなんとかするため、まず人並みに自立できるようになるために取り組んだものが、私にとってはスピリチュアルの教えでした。
傲慢というのはプライドという言葉に置き換えられます。本来は誇りの意味なのですが、傲慢や見栄のこととして使われることが多いです。プライドが邪魔して・・・というほうがちょっとかわいげがあって、受け入れ易いかもしれません。
人生がめちゃくちゃになっていた大きな原因は私の場合、傲慢だったと思います。とにかく一生懸命我慢してがんばって、誰よりも理解しようと努め、間違いを正し、周囲に尽くすような生き方、クライアントさんにも大勢みえます。そういった人の人生の混乱の原因が傲慢だなどと言ったらとんでもないと思われるかもしれません。でも起こり得ることです。
今朝は実は、『差別』について考えていました。子供の間にいじめが絶えないのは今に始まったことではないでしょう。私が子供の頃にももちろん目の当たりに見ました。
私には2歳下の弟と4歳下の妹がいます。弟は生まれながらに顔と全身が濃紺のアザに染まっています。私は幼いながらに、弟を守らなくてはと思いました。弟と一緒に歩いていると「あら汚い。早く洗ってきなさい」などと知らないおばちゃんに声をかけられたりしました。そう声をかけたくなるほど、見た目のインパクトが強かったのだと思います。私は「弟は汚れていません。これは生まれつきのアザです。」と笑顔で説明していました。
そして妹は物心ついたころには男の子のようでした。誰が見ても男の子に見えるので妹と歩いているとよく「ぼく」と声をかけられました。私は笑顔で「ぼくではありません。この子は女の子です。」と答えていました。どのおばちゃんも悪気はなかったのですが、とにかく幼少期に私は、なにごとも見た目で判断するのは愚かだと学びました。
しかしそう思って世の中を眺めてみると、いえ、家の中を眺めても、表面的な価値観にあふれています。私の両親は美男美女で、両家の家系もやはりそうです。何事にも見た目のことを言われて育ったなと今振り返ると思います。美しいものが好きなのはいいと思いますが、そこにどうしても優劣の価値観が付きます。弟が生まれた時の両親のがっかりは想像に難くありません。親戚もそうだったでしょう。
しかしそういった価値観というのはとても未熟な価値観です。たとえば子供は見た目のきれいなものが好きです。味も単純な味が好きです。毒をからだに入れないための本能だとも言われていますが、実際複雑な問題を内に入れないためのシステムなのかもしれません。ですから異物と感じるものには無意識に敵意を感じ、いじわるをしたりして疎外しようという反応は出やすいものです。子どもの世界では、異物に感じられるもの、自分の世界に持っていたくないわけのわからないものを攻撃します。
インナーチャイルドの勉強をしているとわかってくるのですが、子供の視線というのはとても自己中心的です。利己的という意味とは違って、世界の軸が一人称という感じなのです。僕がいてママがいる。僕がいて先生がいる。僕がいて友達がいて犬がいる、なので、ママがひとりの人間だということはもちろんわかりません。そしてそのころ結ばれた絆は、おとなになっても無意識の中(潜在意識の中)で生き続けます。
おとなになってもお母さんのことが赦しにくいのは、私のお母さんなんだから、という気持ちがいつまでも続くからです。世界が自己中心だったころに作られた世界観の柱をインナーチャイルドは今も守っているのです。
実際私も母が表面的なことで誰かのケチをつけたりするととても腹が立ってしまいます。だって、せっかくあの弟を産んで育てたっていうのに、なんでよその人を見た目で判断するの?なんのために弟はそんなふうに生まれたの?という私の幼い気持ちが出てくるのです。
おとなの私はこう思います。なるほど、確かに差別はなくならないはずだ。人が大変な思いをしてきても、自分がした辛い思いをただ我慢して乗り切っただけでは、そこからは学び成長することはできない。その辛さが、自分の傲慢や利己心や強欲や冷酷さから来ているということに気づき、それを手放し、新しい世界の柱を自らの意識に再構築するまで、世界は繰り返し同じ景色を私たちに見せる。自らの未熟な価値観を覆し、人間の真の価値に心底人間が気づいてそれを自分のものにするまで、世界は変わらないのだ。
しかしそうすれば世界は変わる。
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