みなさん、こんにちは。
8月も終わりに近づいてきました。
猛暑すぎて、休みごとに高いところに行ったおかげで、いつになくたくさん遊び、夏の信州の美しさを堪能させていただきました。
おすそ分けを少し。
さて、今週も本当にすばらしい導きと、奇跡と、分かち合いがたくさんありました。
みなさん、本当にありがとうございます。
真理を自分のすべてに適用していこうと決めると、どんどんいろいろなことが見えてきて、人生の断片的な体験があらゆるところから一つに向かいつながっていく、つまり深く理解していくことになるのですが、
自分の意識の訓練に不可欠だったと感じるものに「演劇」があります。
私は玉川大学の演劇専攻というところで演劇の訓練を受けました。
入学当初から私は職業としての俳優を目指していましたが、そのカリキュラムの目的は「全人教育」の一環でした。
※注 全人教育とは、知識や技能の教育に偏ることなく、感性や徳性なども重視して、人間性を調和的、全面的に発達させることを目的とする教育です。
そしてそれがどれくらい偉大なことなのかを体験することになります。
当時の恩師は「演劇教育はすべての人に受ける必要(価値)がある」とおっしゃっていましたが、私は当時も共感し、特に昨今、改めてそう思います。
私が演劇によって学んだことを少し。
1,心は訓練できる
2,訓練されない心は無知であり無明である
3,訓練とは、整理し、理解し、目的のためにそれを使うこと
4,心の訓練は心を浄化する
5,からだは心に従う
6,役を演じることの前に、自分を知り、自分を浄化する必要がある
7,役を演じるということは、人を思いやり、愛すること
8,役の人物を思いやり愛することは、その他の役の人物を思いやり愛すること
9,役を愛するためには、自分と、かかわるすべての人を愛する
10,作品を愛することは、観客に愛を伝えること
11,作品を作ることは、それに関係するすべてと深く交流するということ
12,観客は不特定多数で未知数なので、つまりはすべての観客となりうる人を思わなければならない
13,自分を愛することとすべての人を愛することはひとつであり喜びである
14,つまり創造とは愛である
15,舞台には欲と傲慢が渦巻く
16,創造は愛であるのに、描かれるのは自我である
17,物語は常に対立によってのみ描かれる
18,役を演じながら愛でいるために、私たちは舞台に神聖さを召喚する
19,神聖な空間は、交流の中で意図されなければ維持できない
20,創造は祈りと瞑想である
芝居は校内と、それから小劇場ブームと呼ばれた時代の一角で、先輩や同輩、後輩とともにひっきりなしに行われていた。
そこで交流した先輩が先日、突然亡くなった。
その先輩のちょっと緊張した目線や、シニカルなつぶやき、繊細で無駄のない所作や、誰に恋して誰から恋されていたとか、役者としての自分への問いとか、舞台との向き合い方とか、誰を尊敬していてなにを軽蔑しているのか、とか
私のことを「オミちゃん、ってさ。」と呼ぶ声とか。
太鼓のばちの握り方とかふり方とか、一輪車の乗り方とか、黒い作務衣で道具を作っている姿とか、「仕事は楽しく。」とみんなに呼びかけるふうに自分に言い聞かせる時とか、或いはその逆とか、
演出にダメ出しされたときの受け止め方とか、それからどうするか、とか、
まっ白い衣装が似合っていることとか、
打ち上げでみんながどうにかなっちゃいそうなのをちょっと下がって見守っている感じとか、
学校で一番好きな芝居で、いい役同士でからんだこととか、ちゃんとからめてたのかな、というあいまいな記憶とか。
そういう、全部肉体の記憶みたいでいて、本当は全部心の中で受け取っていたものが、どうしてこうもかけがえが無くて尊いんだろう。
たった数年の間のことがどうしてこうも永遠分みたいに大きいんだろう。
多分、一緒に創造を分け合って、ひとつのものから互いに多くを受け取ったからだ。
私たちには一瞬から永遠を受け取るチャンスがいつだって与えられている。
ただそれを選ぶかどうか。
受け取るかどうか。
愛することを選ぶかどうか、なんだと思う。
セッションと講座を通じてみなさんと交流しています。
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