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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

本当に変わるには

自分と向き合うのことには二つの側面があります。

 

一つは心の中にあるものに目を向けること。

もう一つは、自分という器に目を向けること。

 

自己探求も癒しも、その両方のバランスを必要としています。

 

自分を変えるというのは、中にあるものを変えると同時に、その器を育てなくては実現しません。

 

ヒプノセラピーはおそらく、中にあるものを変えることで知られています。潜在意識というのは体験の記録のことですので、その記憶にまつわるラベルを解体することに変化の秘訣があります。

 

その記憶とは感覚的な世界ですから、感覚的に思い込んでしまったものをイメージで修正してあげることができるのです。

 

これは、明確に臨めば明らかな変化が望めます。

 

体験とはすべて過去のことです。出来事は時間が過ぎれば去ります。しかし記憶は残ります。私たちの脳に、からだに、またエーテル体、アストラル体というエネルギーの領域に。

 

記憶を鮮明に思い出せば、からだはそれが今起こっているように反応します。ですから、ストレッサーはないのにストレス反応が起こるという現象が起こります。これが私たちを過去に縛り、時に苦しめるものの正体です。もちろん良い体験には良い反応が起こりますが、そちらのほうはあまり問題になりません。良い体験に対しては意欲的、積極的な反応が起こります。

 

でもこれらのことは、あくまで今ここまで、つまり過去のこと。

 

私たちが時に過去を癒さなくてはならないのは、本来の前進、どこまでも進化していこうとする魂の本分を止めてしまっている状態をバランスすることにあります。

 

また潜在意識は正負の法則、陰陽の世界です。ですから、全部をポジティブに塗り替えることはできないしあり得ないことです。

 

ヒプノセラピーで成果があがると、多くの人がどこまで癒せばいいのか、という疑問を感じられると思います。私たちには魂の選んだ設定があり、幼少の体験がその土台です。それが悪いのではなく、どんな設定でも、そこからスタートし魂の計画を進んでいければそれが正解です。

 

ですから極度にマイナスに偏っているところをほぐしてバランスをとれば、癒しの役目は果たせます。

 

そうすると、私たちの本質である魂(超意識・キリスト意識)の部分とのつながりがとても良くなるのです。

 

ヒプノセラピーでは肉体意識がほぐされたら今度は内なる神とつながり魂とともに歩むことをサポートできます。私はハイヤーセルフをチャネルするワークを始め、誘導瞑想でそれを行っています。潜在意識よりさらに内奥の高次元の自己意識とつながるワークです。瞑想をコンスタントにされている方なら、とても有意義に体験いただけると思います。

 

そうして私たちの器は本質にふさわしいものへと成長し始めます。様々な要素をはらんだ私たちという存在は、全体として一つにまとまりながら助け合い前進していくのです。これが統合であり、変容であるといえます。

 

ですから私は神なきセラピーは本来あり得ないと思います。世の中で神を語ることは誤解をはらみます。しかしそれ抜きでは魂の抜けた芸術のように、愛のないドラマのように、まったくもって無意味なものになります。

 

人が経験するすべてのことに意味がある言われるのは、すべての背後に神があるからです。経験自体に価値があるのではなく、すべての経験はその背後にある価値をみつける機会だということなのでしょう。

あなたの愛とわたしの愛

愛という言葉ほど当たり前で曖昧な言葉はないかもしれない。世界には音楽が溢れ、その歌詞の多くは愛を奏でる。

 

私は心のセラピーと称して仕事をしている。セラピーとは療法であり、治し主は神で治すパワーは愛である。

 

真理の世界では、病気は心にしかない。心因という意味ではなく、心が真実と幻想を取り違えることが病気だという。

その意味は瞑想なしにはなかなかわからない。

 

でも、だから、私は常日頃から神の愛に頼り、その力に介在を願って仕事をする。なるべく自我が神の仕事を邪魔せず光に直接触れることができるように。

 

問いかけをするとき、その言葉がその人の内側で、どのあたりにどう響きどう広がり、或いはとどまり、どんな作用をするのかを注意深く聴く。答えを聞きたいのではなく、その響きを辿ることでその人の内側の地図を見させてもらう。

愛という言葉を使う時はなおさらに注意深く。

 

愛が滞っている場所や、愛を誤解している箇所や、愛を拒絶している気持ちを聴く。そしてその人がどうしてそれーつまり愛をせき止めてまで自己を守ろうとしているのか、その言い分をよく知ろうとする。

 

せき止めているものは、存在の必要性がないと真に自覚するまでそこにとどまるからだ。

 

愛をせき止めてまで自己を守ろうとするその理由は様々だ。それはほとんどの場合、利己的ですらない。それはほどんどの場合、周囲の人ー親や子供などーを守ろうとしたり、嫌な思いをさせたくなかったり、社会の規範に忠実であろうとしたり、誰かを悲しませたくないという理由だったりする。

 

けれど、いずれにせよそれは、恐れによる。好きであるほど恐れも強い。だから人は、好きと愛を、或いは恐れと愛を、取り違えてしまう。

 

身近な人に悲しい思いをさせたくないという理由で自分を生きることを止めている。

周囲に起こることのかたづけが最優先で、自分とともにいる時間さえ見失っている。

 

それは、その犠牲は愛ではないのか。

 

神なしにそのことを説明できない。神があなたを、すべての人を愛しているという前提なしに、なにひとつも解決できない。

 

恐れに結びついた愛を解き放つことが重要だ。

肉体に結びついた心を解き放つことと同様に。

 

愛は恐れない。恐れず信頼しなさい。自分や他人の自我ではなく、その奥に隠れている真の自己を。すべての人の奥に在る真の自己を。

 

どんなに巧妙に複雑に幾重にも覆い隠しても、それは永遠に変わらずに、ただそこに在る。だから、それをみつけなさい。それがどんなに困難でも、不可能ではない。それが実在する真実だから。

 

それが、神であるから。

 

 

私は愛をたくさん体験し、知りたい。多くの人がそう神に告げて、できるだけ神を見失う設定を選んだ。

 

思いつく限り巧妙に複雑に幾重にも、神を覆い隠しまるで闇、まるで地獄、苦しみを感じることさえ許さないような困難を設定し、

 

どのような深い闇からもあなたをみつけることができるようになるレッスン。

 

しかし深い闇でこそはっきりと際立つ光、そしてそこへ引き戻そうと働く強いちから、それこそが愛だった。

 

時には恵まれて優しくて魅力的で、ノーということにすら罪悪感を感じるような設定もあった。

 

その居心地の良いベッドから立ち上がり歩き出すちから、それが愛だった。

 

療法とは、真の療法とは、真実でないものから目覚め、真実を生きるための学び。

無意味なものを手離し、意味のあるものを手に入れるための学び。

 

自分で選んだ、或いは過去に行ったことが引き起こす結果によって創られた設定(カルマ)から自由になるための。

 

生きる意味は単純だ。しかしその単純さを見失う罠は巧妙で多彩だ。とても、私と自我のちからではその罠を逃れることはできない。

 

生きながらに神とともにあること。それがたぶん、チーム人間の共通する使命なのだと思う。

本当にわかっている人とはどんな人?

本当にわかっている人、と昨日書きました。その言葉の意味を少し掘り下げたいと思います。フェイスブックにいただいた共感のコメントが私にヒントを投げかけてくれたからです。

 

本当にわかっている人と私が感じるのは、ずばり「神を内側に見つけて直接体験した人」のことです。たくさん考えたあげく結局当たり前の現実に戻ってきたという意味でも、博識という意味でも、正しい人という意味でもありません。

 

そしてそれを知っている人の言葉には、言っている内容や言葉の示していること以上の計り知れない思いの深さ、強い愛を感じるという意味なのです。それは人の中の中心に触れ、そのほかのものを変えてしまうほどの力を持つのです

 

私自身はたぶん、幼少の頃から、その部分に敏感だったように思います。この人が言っていることの真意はなにか、その奥にある心は何か、ということです。そしていくら言葉上正しかったとしても、何かが引っかかってその言葉を飲み込めないということがよくありました。

 

敬愛するスリ・ダヤ・マタの言葉を引用します。

「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。」

 

この思いなのです。この世では完全主義は直さなければならないものの項目の一つです。なぜならこの世に表れているものの中に完全は絶対にないからです。

 

しかし芸術的、形而上学的な傾向のある人は常に完全を求めます。表現者が完全を求めるあまりこの世の現実から逃避するのはよくあることです。この世に完全な正義や美を求める人もそうでしょう。

 

突き詰めれば突き詰めるほど壁にぶつかります。周囲と摩擦を起こすことも多々あります。

 

完全なものがみつからないという恐れが消え去らない限り、平和はありえません。不完全である限り、いつか迫りくる敵に備えていなければなりません。それがこの世から戦争という現象がなくならない明確な理由なのです。どうせいつか襲われるのであれば、先に仕掛けてしまえばいいし、いつか裏切られるならそもそも仲良くする必要などないのです。

 

しかし完全主義は間違っていません。ただ求める矛先が違っていただけです。そもそも自分の中に完全があるというのに。

 

子供の頃の私が、周囲のおとなたちに求めた完全さ、公正さは常に裏切られました。そして私は長い間いろいろなものに失望し続けました。その失望はとことん私を疲弊させ続けていました。当然ながらなにより一番、自分自身に対して失望していたのです。

 

最近になって時々、こんなふうに言ってくださる方が現れます。

「やっぱりAZUさんは、選ばれた人なんです」「それはきっと、AZUさんだから、そうできたのではないかと思えます」

完全さを見つける前の私がどれだけそういう言葉を欲しかったことだろうと思います。この不完全な世界での希望とは、特別に光り輝いていることなのです。

 

しかし今の私は、私の中の光を見てくださる友人に深い友愛と喜びを感じるとともに、そのことはやはり違うのだと再認識するのです。

 

私が絶望から希望へと再生できたのは、私たちのすべてが不変の完全さの中にいるということを理解できたからなのです。特別や特例がないことこそが救いです。

 

その完全さの中にいるはずの友人が、自分だけはそこにいないと感じて苦しんでいる気持ちが私には本当によくわかります。それは自分の苦しみそのものだからです。

 

多くの求道者や芸術家たちが、人間の限界の壁を越えようと命をかけてきました。その思いを感じると胸がいっぱいになります。つい最近もセッションでそのお話をしました。

 

苦しみという幻想から目覚めるのは、自分のまんなかの最も優しく暖かい静かな場所に戻ったときです。苦しみの果てに見つけるのは「その向こうにあったもの」ではなく、疲れ果てたあげく「帰ってきたおうちにあったもの」です。

 

真の芸術家がその人生をかけて見せてくれるものとは、私たちを疑似体験によってより早くおうちに帰ることに気づかせてくれるものなのです。

 

「私たちは魂です。そして魂の本質は完全です。そのため、完全でないものに、完全に満足することはできないのです。

でも完全とはなにかを知ることができるのは、私たちの神を知った後なのです。

(スリ・ダヤ・マタ)

 

そしてスリ・ダヤ・マタを勇気づけた言葉を、私自身とすべて同じ源を持つすべての友人に送りたいと思います。

 

「聖者とは、決してあきらめなかった罪人である」。


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