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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

究極のしあわせ

感受性が高い人はそれだけ心の防御力を強めています。

そうしないと壊れるからです。

でもそれは、生きてるだけでなんだか大変で疲れることです。

強い防御の向こうにはいつでも強い敵がいます。

実際にはそうでなくても、心はそのように想定して生きているということです。

 

トラウマや毒親はもちろんインナーチャイルドに影響を与えるものですが、そもそも感受性が高いということは、周囲からのエネルギー(刺激)をキャッチする能力が高いということです。

ですから良きも悪しきも多くを吸収します。

 

そして若いほどアンテナは敏感だし、生命力が旺盛な分反応も大きいし、同時にキャッチした情報の処理法がわかっていません。

人間が生物である以上、優先度が高いのは「危険を避ける」ことです。

そういう意味で、有用度が高い情報とは「危険をはらむもの」です。

感受性の高い人が良くも悪くも吸収しやすいはずが、結果としてネガティブなエネルギーの影響をより受けやすいのはそういった仕組みのためだとみられます。

 

トラウマにも毒親にも思い当たらない、或いは解決して今は平穏だ。

生活環境も整って安定している、家族も円満。必要なものはすべて持っている。

だけど、喜びを感じていない。そういう方が最近増えています。

 

 

「喜び」とはどこにあるのでしょうか。

それは心の中、意識の内側だけにあります。

もっとはっきり言えばそれは「霊的成長」の中にあります。

無感覚、無感動とは霊的停滞なのです。

 

感受性が高い人もそうでない人も、生きやすい人もそうでない人も、誰もがしあわせを求めています。そしてそれを求めてなにかしらの行動を起こします。

 

そのしあわせが「環境」であり喜びは外からの「刺激」によってもたらされると、自我は漠然と、しかし強固に信じて前進します。

その正体は承認欲求です。

承認された、という喜びは自我にとって一番必要なものです。

食べ物であれ衣服であれ住まいであれ美であれ健康であれ能力であれ権力であれ「手に入れる」ことで承認を得られたと自我は理解しています。

生まれたての赤ちゃんにとって大事なものは、親から承認されていることです。

それがなければ命を保つことができないからです。

実際に多くの人が最初に受ける心の傷は「お母さんがよく見ていてくれない」ことによる不安です。多くは不可抗力で、誰にも罪はありません。

あれこれという劇的な出来事よりも、そのことのほうが重要で実際的なのです。

 

自我が信じている世界の危うさ、根拠のなさは、意識の仕組みがわかるとみなさん納得されます。3歳までに与えられた刺激がその主たる基礎だからです。自我の世界は三つ子の魂百までなのです。

 

その先を体験しませんか?3歳から先の可能性を。

前世になにをしていたか、ではなくて、それによって何を知り、今なにを求めているのか。

幾千の転生をしてまで魂が知りたがっているその先を。

私たちにはそれがすでに許されています。

 

自我を超えて真我を知った時、人には無限の可能性が広がります。

自我の作った家庭、自我の作った社会を超えて、真我が導いてくれる世界を生きてみませんか。

それが、愛によって廻る世界です。

 

ハイヤーセルフとつながるというセッション、まだまだ受けてくださる方は少数です。

また、ライタリアンレイキもそうです。

霊的な探究と成長の材料、道具、また叡智そのものが、地上に降ろされています。

どうかお使いください。

あなたの感受性は、周囲の雑音をキャッチするためにあるのではありません。

愛と叡智をキャッチするために神が人間に与えたものの中で最上のものです。

私はそう確信します。

私も日々、全力で探究を続けています。

個人とはなにか

沖縄のすばらしさに、「人が個として尊重される社会」をあげたいと思います。

もっともすべてがそうだというわけでも、沖縄が意識的にそれを目指しそうしているかどうかもわかりません。おそらくはもっとシステム化された便利な社会へ向かっていることでしょうし、本土並みを追うのであれば、目指すのは違う形なのかもしれません。

ただ私が東京の片隅で生まれ育ち、ひとしきり社会人を経験してからここで暮らして感じた雑感です。

 

安富歩さんの言葉を借りれば日本は「日本立場(たちば)人民共和国」だそうです。これはまったくもってそうだと私も思います。

ずっと以前にこのブログにも書いたことがありますが、子供の頃に「相手の立場になって考えなさい」と教えられたことがあります。それが思いやりである、と。

私は幼いながらにそうしようと努めましたが、相手の立場に自分の身をおいて考えるということをいくらやっても「どうしてあの人はこうするんだろう」「どうしてできないんだろう」「自分だったらこうするのに」という自我の声が強まり、対話の溝を深めるだけなのです。

本当は「相手の身になって感じてみること」でしか理解が深まることはありません。たとえそれが困難だったとしても、それを試みることに意味があります。そうして初めて自分という枠組みがどれほど小さくて不自由なものかを、そして他者への理解に努める際に出くわす壁の正体を、垣間見ることができます。

人はその壁に挑むことでしか成長することはできません。それには立場ではなくて、個であることから始めなくてはなりません。

 

瞑想の条件に「個であること」があります。

言い換えれば、魂としての自分に戻ることが瞑想です。

前回記事で、魂とは内なる神の質を帯びた個々の生命の本質=愛だと表現しました。

魂には立場がありません。

立場どころか、アイデンティティーもありません。

性別も、血縁も血筋も、地位も権力も階級も学歴も、育った環境も現在の状況も関係ありません。

そしてそれらを取り外してそこに残る心、それが魂です。

瞑想はそこに戻ることです。

 

人は社会が作った立場を自分と混同し、自己形成の際に身に着けた様々な概念(潜在意識)を自分と混同して生きています。

内なる神が私たちに求めるものは、個、つまり究極的には魂に戻ることです。神のおうちに還るとはそのことです。死んで肉体を離れれば戻れるというものではありません。

少なくとも、愛によるコミュニケーションをするためには、立場ではなく個と個という意識で向き合わなくてはなりません。

瞑想はそれを可能にするほぼ唯一の方法です。

 

瞑想は、何者かになるために行うものでは決してありません。一般的に本やネットで多くの方が求めているのは、何者かになるための情報のようです。でも何者かになるための瞑想には意味がありません。

 

神の本質は、無条件の愛です。それは自我をなんでも受け入れるという意味にとられがちですが、まったく違います。当たり前に聞こえますが、ここで止まっている方はたくさんおられます。

 

すべての人に備わる魂を信頼することです。すると初めて対話が可能になります。対話とは対立する者同士が理解を求めて議論することや批判することも含みます。思考の罠にはまるとここが混乱して対話や議論ができません。対話を攻撃や否定に感じてしまうのです。

自己意識を癒すとこの混乱が解け、魂への信頼が回復されます。すると、対話というコミュニケーションが回復します。

 

心を開いたコミュニケーションの難しさを、インターネットのやり取りなどを見ていると切に感じます。

それが今の集合的メンタリティーなのだろうと受け取っています。

だからこそ、急いで伝えたいことがあります。

どうぞ諦めずにご自身とのコミュニケーションを進化させてください。

そしてよろしければお手伝いさせてください。

すべてに愛という解決をもたらすもの

昨日で53歳になりました。ここまで生かしてくださりたくさんの価値ある体験と学びをさせてくださった神とその神を宿すすべての仲間に感謝します。

 

あなたは生きているだけで価値があると思えますか?

すべての人がそうだと思えますか?

 

そういう気分になれる一瞬も人生にはあります。そしてそれはすばらしい気分です。

誰もがそのすばらしい気分が続くことを願っているのではないでしょうか。

 

私は自己意識の癒し、浄化、解体ということに長年取り組みました。そして苦しみの原因は自分の自我の思い込みによるものだということがわかりました。

自我の思い込みというのは、単に特定のものごとに対する考えでも、頑固とかそういったイメージのものではありません。

自分のアイデンティティとも重なるような、自然で当然のように自分を形成している概念をも含みます。

そしてさらにそれは通常では良いと思われているもの、つまり自分という個体を守るために存在しているものさえも含みます。

 

それは一時的に、ある状況においては正義でも、同時に自分をその枠の中に押し込め縛る概念です。

そしてそれがあるがゆえに自分を許せなかったり、同時に周辺他者を受け入れられなかったりします。

そして人生経験を積んで賢くなるほど、つまり学習して回避したり防御したりを重ねるうちにどんどん強固になるものです。

 

自我の思い込みは、この世は確定しているものだという感覚をもたらします。なぜなら自我はこの世を「自分とその他の世界」というふうに認識させ、その他の世界は既存のものであり、自分がそこに交わるためには自分が既存のものに合わせたり馴染んだりしなければならないという奇妙な認識をもたらすのです。

なぜなら自我の知っていることとは常に過去、つまり既存なのです。

ですから自我の生き方は、既存のものに染まっていくことです。

世の中で現状維持が良いことというふうに感じさせるのはこういう自我の性質からきていると理解できます。その目的は自己保存です。

 

一方霊的成長とは、自我が内なる神を知る旅です。神は無限であり、すべてであり、ひとつです。神は最初も終わりもなく、完全です。自我が神を知ろうとするということは、既知の概念を手放す旅でもあります。

 

無限ですべてでひとつで初めも終わりもなく完全なものが神であるとするなら、すべての存在の内に神があるのであり、すべての存在は霊的成長をしているはずです。ただ、無意識であればその成長は極めてゆっくりであり、回り道をし、時には暴走もします。

 

ですから私たちがその道を快適に歩むためには、意識的であることが重要です。内なる神とともにあることをどんな瞬間にも思い出し、その導きに耳を澄ませ、感謝を伝え、意図的に選ぶ生き方、つまり魂(内なる神の質を帯びた個々の生命の本質=愛)を前に出す生き方をすることで、人は初めて自分の生きる価値を実感できるようになるのだと思います。

 

そうして初めて、すべての人が生きる価値があると確信できるのではないでしょうか。

 

魂が前に出ていない人はすなわち、自我が前に出ています。人間が自然界で生き残ったのは本来助け合いができたからなのですが、自分(のチーム)対それ以外という自我の捉え方ゆえに、よりパワーを得ようという欲に歯止めがありません。

 

内なる神というのは、いかなる地上の派閥や団体の考え方とも克ち合うことはありません。なぜならそれは被造物の創り主そのものだからです。摂理や原理そのものでありそれをも創った主が内なる神です。

それが在る、と理解すると、私たちの脳は飛躍的に世界を理解するようになります。

破綻無き原理がわかります。

 

なぜ、人が争うのか、なぜ、価値が食い違うのか、対立が起こるのか、それはモラルとかルールでは説明しきれるものではありません。根源なる神の在り方に照らすとすべてに答えがあります。その時、あらゆる対立に和解と統合と前進という道が開かれます。

 

なぜ?という問いをやめないでください。しかしなぜ?と問いかけたからには必ず聴く耳を持ちましょう。聴く耳を持つということは、あなたの心が開いているということです。

開いているために私たちは自分の自我の思い込みの混乱を解いてあげなけばなりません。

多くの人が、心を閉じたままなんでなの?と叫んでいます。そして自我からの答えを待っています。それでは苦しみは決して終らないのです。

 

なにひとつとして無駄に存在しているものはありません。すべてには成り立ちがあり仕組みがあります。どうぞその、すべてに愛という解決をもたらす神の破綻無き原理を求めてください。それはあなたの内に確実にあります。


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