AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

本当の自分を生きるとは

私の20代を決算するなら「挫折」がふさわしい。プロの俳優の娘として生まれ育ち、ごく自然に表現の道を選んだ。傲慢な意味ではなく自分の中に才能があるのがわかっていて、やりたいことがはっきりとしていて、それがゆえになにを努力すべきかもわかっていて、その努力がとてつもなく好きだった。

運良く、周囲の助けによって、自分では選ぶはずのない大学で演劇を学ぶことができた。学校の教育はすばらしく、私は生き返った。高校までに身に着けた世俗の垢を落とし、純粋になることができた。純粋な良き事に没頭できた。私にとっての演劇は神聖だった。舞台の板に乗るとき、何一つ持たずにただ私の生命を預けることができた。神さま、どうかこの舞台が終わるまでは私を生かしてください。そのあとのことはなにも望みません。もし声を失っても、足を失っても、私はきっと舞台に上がるだろうと信じていた。それでも私は舞台に上がる価値を持っているとわかっていた。それは魂だった。魂とともに舞台に上がることさえできたら私は奇跡を起こすことができる。

だから舞台の上で私は輝くことができたのだと思う。恐れがなかった。

舞台をやり始めてすぐにそういう境地にあったから、当然ながら周囲のおとなとは価値観が合わなかった。良かったのは大学で同じ教育を受けた同志と一緒だった時だけで、それも大学を出て社会という大海に船出するとだんだんとずれを感じるようになった。

それだけではもちろんない。私は神経質でプライドが高くて非常に傷つきやすかった。また表現者の家系の母は、プロは食えてなんぼ、売れてなんぼ、という価値観だった。プロになるのは夢ではなく超現実だった。飯を食えないのは遊びと同じだったし、世間の目も、無名な表現者は「たまご」だと認定した。早くから市場に自分を売りに出さなければと思っていたし、中学生から望んでいたのはいち早い親からの自立だった。だから演劇を神聖視する一方でただ純粋に好きで楽しむということとは全く違った目的のためのツールでもあったと思う。

早くから私は場を選びすぎ、そしてその後は選ばなすぎるようになった。

20代全体を使って、私は何もかもを失っていった。

時代はバブルからバブルの崩壊を辿っていた。

20代の頃には自分はアダルトチャイルドだと気づいていた。なにもかもが辛く窮屈なくせに、自由が与えられても決して自由になることはできなかったと思う。自分は損なわれてボロボロになっていると感じていて、自分のほどんどの部分が嫌いで仕方なかった。修復するにはなにもかも手遅れに思えた。その一方で、修復しない限り自分の未来は開けることはないだろうとも感じていた。

時々セッションでもたとえ話として自分の例を持ち出すこともある。なるべく簡潔に手短にではあるけれど。「とても想像がつかないですね」と、優しく返してくださる方も多い。

インナーチャイルドと向き合う価値は無限にある。修復と治癒的な意味はもちろんだけれど、セッションを20年やり続けてきて思うのは、インナーチャイルドワークは目覚めに向けての最短の道だということだ。

目覚めとは自己の本質を見出すことであり、本質を見出すとは自分と混同してしまったあらゆる価値観を落とすことだ。病んでいるのかそうでないかはまるで関係がない。無意識を意識化し無知を知に変え闇に光を当て恐れから自由になることだ。

母の胎内で肉体を持ち始めた頃から取り込み始めた既存の価値と世界観の虚と嘘に気づき、ほんものを受け入れていくことだ。

虚はあなたに付け足すことを求め、ほんものはあなたがほんものであることだけを教える。虚はあなたが高みに登ることを誘惑し、ほんものはあらゆる誘惑から目を覚まさせることを促す。

人類はもう、そこと向き合わなくては前に進めない瀬戸際に来ていると思う。虚に飲み込まれてしまう前に。

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感謝とともに

AZU拝

いつかは来ない

自分の人生の中で最も闇が深かったとき、どうやってその濃い闇から浮上したのかを振り返ると、それは自分の力と思われていたもの、例えば合理性、正しさ、強さ、頭の良さや特別な能力、まじめさ、優しさでさえ、まったく歯が立たなかったと認めざるを得ない。

その頃は既に自分なりの祈りも瞑想もそして自己統制や内なる指針にも興味を持っていた。しかし当時は、自分が正しいと信じているもの、つまり自分が既にかけているメガネを通して判断した上での神や愛を求めていただけだった。

良い子にして悪いことをしないで待っていたら、いつか神さまが私がこの世にいたことを思い出し、選んでくれて自分は楽になれる、というような感覚に近かった。

私の母は自分を無宗教無神論者だと言ったが、無意識的にはこのような観念を強く持っていたと思う。これだけ苦しんだんだからそろそろごほうびが来てもいいはずだ、これだけ悲劇を味わったんだからいつか白馬の王子が救済に現れるはずだ、というような。このような観念は多くの人の潜在意識に根深く刻まれているように思う。

この世界観は、古い宗教観と一致している。

その背後には、罪と罰という呪いがあり、カルマという言葉はそれらを想起させる。

そしてその罪と罰が神的ななにかから一方的に課せられたものだという思いがあり、それを免れるには良い行いをして帳消しにするしかない、というような考えが流れている。

苦しみの中で良い行いをすることは、苦しんでいる自分をさらに追い詰めながら他者を優遇することであり、目的はその向こうにあるであろうごほうびだ。

この観念に従って生きると信じられないことに、私たちは愛からことごとくはぐれてしまう。その恐れと支配はまぎれもなく自我から来るものだ。

私は宗教を否定しないし、それぞれの中にとても重要な真実の種があると思う。しかしどれもが不完全で、時には救済の真逆へと人を誘う。それは人間が作ったものだから。

ちなみに私の父は「宗教に関してかなり勉強したが、信じるに値しなかった」と私に語ったことがある。私も父ほどまじめにではないがそれなりに求め、そして完全さという安らぎをみつけることはできなかった。

もうみなさんはおわかりかもしれない。完全な平安はどこに探すべきなのかを。

そしてそれを今すぐにここで選ぶことができるということを。

誰かに、何かに認めてもらったりごほうびを待つことなく。

待っている限りは私たちは罪と罰の世界から愛の世界に戻れない。

「愛でいさせてください。」

その祈りからすべては始まる。

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AZU拝

どうぞ、お受け取りください。

セッションで奇跡的だと思うのは、外的な要素に何一つ変化がないのに問題を解決することができるということです。

人が苦しみを感じる時、まずは「問題は周囲に(あるいは肉体に)起きている」と感じます。

そしてそう感じている間は「解決法は外側にある」と信じています。

それが第一段階。

その段階で私のところにみえる方はほとんどいません。多くの方が、問題はそこではないと知り、自分と向き合うことでそれに取り組んでいるか、そうしようと思っていらっしゃいます。

でも、心の中に何かを責める思いがあるうちは、向き合うことはとても困難です。なぜなら向き合うということは、受け入れなくてはならないからです。責めるということは、受け入れない姿勢でもあります。

あるがままに見るというのはそこに自分の信じている思いをくっつけずにそれがどう位置しどう向いているかを観ることですが、私たちはそもそも信じている思いというメガネをつけている状態でしか世界を見ていないので、そのメガネをかけていることにもメガネになにがくっついているのかにも気づけません。

そのメガネは、周囲にあるものを「敵か味方か」「安全か危険か」というふうにより分けて見ています。そのメガネは生存にとってとても大事であり、そのメガネの精度を上げることがより賢く生きることだと信じられています。

人間関係の問題というのは、幼少期の生存のために最重要な存在である「母」に照準を絞って作りこまれたメガネで別の人を見た時、その人のあるがままを見ることができないことから来ています。

そして問題に対して、相手の在り方か自分の感じ方、そしてそのように育てたお母さんとの関係に問題があると理解し、それが「悪しきことの原因」だと責めています。

つまり、原因を追究している間に責める相手は推移しますが、責めていることに変わりはなく、そして責めている間は心に安らぎはありません。安らぎが訪れないということは、その問題は解決していないということです。

安心した、すっきりした、というのは単に気分の問題だと思われがちかもしれませんが、本当の解決とは「平安」です。なぜなら生き物にとって脅威があるうちはそれは戦っている状態であり、人は戦いながら愛することはできないからです。愛することは、あらゆる局面におけるゴールです。

奇跡は、愛以外の解決法で不可能だった問題を愛によって解決することで起こります。

愛で解決するというのは、精神論や善悪、正邪という二元論を超えた原則に戻ることです。

例えば上の例で言えば、責めていたことに気づき、責めることによって自分を守るという防衛法をやめてみるということです。

戦いが終わると、あるがままという姿が視界に入ってきて、本当のことを受け入れてみるということが可能になります。

なんであれ受け入れてみるということが可能になった時点で、それは敵でいることはできなくなります。敵が消え、責める相手が消え、和解が起こります。それが癒しです。

私たちの問題の正体は、どこまで行ってもここに例えたような、エネルギーの質と方向性が織りなす原則に反する「誤解」から来ています。

癒しも浄化も邪気を払うという行いも、意識にこびりついた思い込みという誤解を解く作業に他なりません。取り組むことを選んだ者のきつく結ばれたカルマの結び目に、内なる神は油をさしてくれます。

問題が解決した時まっさきに目に入るのは、問題の解決は目的ですらなかったという景色です。それはまさに、奇跡に出会うため、神をみつけるためのみちしるべだったとしか言いようがありません。

さあ、いやおうなく愛と光が流れ込んできました。

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