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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

いつかは来ない

自分の人生の中で最も闇が深かったとき、どうやってその濃い闇から浮上したのかを振り返ると、それは自分の力と思われていたもの、例えば合理性、正しさ、強さ、頭の良さや特別な能力、まじめさ、優しさでさえ、まったく歯が立たなかったと認めざるを得ない。

その頃は既に自分なりの祈りも瞑想もそして自己統制や内なる指針にも興味を持っていた。しかし当時は、自分が正しいと信じているもの、つまり自分が既にかけているメガネを通して判断した上での神や愛を求めていただけだった。

良い子にして悪いことをしないで待っていたら、いつか神さまが私がこの世にいたことを思い出し、選んでくれて自分は楽になれる、というような感覚に近かった。

私の母は自分を無宗教無神論者だと言ったが、無意識的にはこのような観念を強く持っていたと思う。これだけ苦しんだんだからそろそろごほうびが来てもいいはずだ、これだけ悲劇を味わったんだからいつか白馬の王子が救済に現れるはずだ、というような。このような観念は多くの人の潜在意識に根深く刻まれているように思う。

この世界観は、古い宗教観と一致している。

その背後には、罪と罰という呪いがあり、カルマという言葉はそれらを想起させる。

そしてその罪と罰が神的ななにかから一方的に課せられたものだという思いがあり、それを免れるには良い行いをして帳消しにするしかない、というような考えが流れている。

苦しみの中で良い行いをすることは、苦しんでいる自分をさらに追い詰めながら他者を優遇することであり、目的はその向こうにあるであろうごほうびだ。

この観念に従って生きると信じられないことに、私たちは愛からことごとくはぐれてしまう。その恐れと支配はまぎれもなく自我から来るものだ。

私は宗教を否定しないし、それぞれの中にとても重要な真実の種があると思う。しかしどれもが不完全で、時には救済の真逆へと人を誘う。それは人間が作ったものだから。

ちなみに私の父は「宗教に関してかなり勉強したが、信じるに値しなかった」と私に語ったことがある。私も父ほどまじめにではないがそれなりに求め、そして完全さという安らぎをみつけることはできなかった。

もうみなさんはおわかりかもしれない。完全な平安はどこに探すべきなのかを。

そしてそれを今すぐにここで選ぶことができるということを。

誰かに、何かに認めてもらったりごほうびを待つことなく。

待っている限りは私たちは罪と罰の世界から愛の世界に戻れない。

「愛でいさせてください。」

その祈りからすべては始まる。

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感謝とともに

AZU拝


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