セッションで奇跡的だと思うのは、外的な要素に何一つ変化がないのに問題を解決することができるということです。
人が苦しみを感じる時、まずは「問題は周囲に(あるいは肉体に)起きている」と感じます。
そしてそう感じている間は「解決法は外側にある」と信じています。
それが第一段階。
その段階で私のところにみえる方はほとんどいません。多くの方が、問題はそこではないと知り、自分と向き合うことでそれに取り組んでいるか、そうしようと思っていらっしゃいます。
でも、心の中に何かを責める思いがあるうちは、向き合うことはとても困難です。なぜなら向き合うということは、受け入れなくてはならないからです。責めるということは、受け入れない姿勢でもあります。
あるがままに見るというのはそこに自分の信じている思いをくっつけずにそれがどう位置しどう向いているかを観ることですが、私たちはそもそも信じている思いというメガネをつけている状態でしか世界を見ていないので、そのメガネをかけていることにもメガネになにがくっついているのかにも気づけません。
そのメガネは、周囲にあるものを「敵か味方か」「安全か危険か」というふうにより分けて見ています。そのメガネは生存にとってとても大事であり、そのメガネの精度を上げることがより賢く生きることだと信じられています。
人間関係の問題というのは、幼少期の生存のために最重要な存在である「母」に照準を絞って作りこまれたメガネで別の人を見た時、その人のあるがままを見ることができないことから来ています。
そして問題に対して、相手の在り方か自分の感じ方、そしてそのように育てたお母さんとの関係に問題があると理解し、それが「悪しきことの原因」だと責めています。
つまり、原因を追究している間に責める相手は推移しますが、責めていることに変わりはなく、そして責めている間は心に安らぎはありません。安らぎが訪れないということは、その問題は解決していないということです。
安心した、すっきりした、というのは単に気分の問題だと思われがちかもしれませんが、本当の解決とは「平安」です。なぜなら生き物にとって脅威があるうちはそれは戦っている状態であり、人は戦いながら愛することはできないからです。愛することは、あらゆる局面におけるゴールです。
奇跡は、愛以外の解決法で不可能だった問題を愛によって解決することで起こります。
愛で解決するというのは、精神論や善悪、正邪という二元論を超えた原則に戻ることです。
例えば上の例で言えば、責めていたことに気づき、責めることによって自分を守るという防衛法をやめてみるということです。
戦いが終わると、あるがままという姿が視界に入ってきて、本当のことを受け入れてみるということが可能になります。
なんであれ受け入れてみるということが可能になった時点で、それは敵でいることはできなくなります。敵が消え、責める相手が消え、和解が起こります。それが癒しです。
私たちの問題の正体は、どこまで行ってもここに例えたような、エネルギーの質と方向性が織りなす原則に反する「誤解」から来ています。
癒しも浄化も邪気を払うという行いも、意識にこびりついた思い込みという誤解を解く作業に他なりません。取り組むことを選んだ者のきつく結ばれたカルマの結び目に、内なる神は油をさしてくれます。
問題が解決した時まっさきに目に入るのは、問題の解決は目的ですらなかったという景色です。それはまさに、奇跡に出会うため、神をみつけるためのみちしるべだったとしか言いようがありません。
さあ、いやおうなく愛と光が流れ込んできました。
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感謝とともに
AZU拝