AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

すべての人が等しく持つ権限

世界を変える権限をすべての人が等しく持っているとしたら、あなたはどのように行使するでしょうか。

世界は確かに私たちの想念の投影の総和によって立ち上がっています。

その世界では、社会的な権力や力の強さ、身体の能力、持ち物の量などという「差異」によってその権限に強弱があると考えられています。

それらをけん制しあって、或いは利用しあって、世界は動いていると信じられています。

今のところそれがこの世界です。

でもそれは、それが信じられ共有されている間だけです。

 

それよりも、等しくすべての人が持っている権限のほうを自然にみんなが受け入れるようになれば世界はそのようになります。

 

「自然に受け入れるようになる」という表現はちょっとぬるい感じがしますが、自然に受け入れるようになるにはどうなればいいかというと、実際にその権限を行使し体験することしかありません。

より信頼できる確実なものを体験してみて人は古い信念を本当に手放すことができます。

 

「きっとそうなんだろうな~。それが本当なんだろうな~。」

という認識は架空です。

「私はそれを知っている」ということにはなりません。

知っているというのは、本当にそうだ、とわかることです。

 

頭のどこかではそれはきっとそうなんだろうと思いながら、実際は違う反応をし、違うことを選び、違う自分を生きている、というのは、それはもう、完全に違うことを信じている状態と言えます。

 

そして私たちは信じているものを投影し、またその結果を見てそのことを更に信じ込んでいきます。

 

頭のどこかにある本当のこととまったく関係のない世界で生きていることになります。

頭のどこかにある本当のことと、自分のやっていることがあまりに分離すると葛藤となりそれが苦しみになります。

その苦しみから自由になるには、本当のことを選ぶしかなくなります。

 

本当のこと、つまり完全なる愛は、葛藤を含みません。

愛と、この世の矛盾の狭間で私たちは罪悪感を抱いています。

罪悪感から逃れるため、なるべく鈍く眠っておこうとしています。

苦しんでいないふりをします。

 

この世界は紛れもなく、個人差という陰影が彩った絵です。

それが美しい、それでいい、と、思いたい人がたくさんいます。

自然は美しいと人は言います。

自然の中の生き物は葛藤しないから美しいと人は言います。

自分を自然に含めてそう言う人も、含めないでそう言う人もます。

 

自然はどこをどう切り取ってもサバイバルです。

自然に葛藤がないのは、ただ生存の目的に生きるからです。

生きるために他の命を奪うことに罪の意識がないからです。

人間も、肉体においての目的はまったく同じです。

でも人間にはただ生きることには罪の意識があります。

それは人間には愛を認識し行使する力があるからではありませんか。

 

愛と相反するこの世の肉体という在り方に疑問があるからではありませんか。

 

愛は分かち合い、肉体は奪い合うという、正反対のことを自分の中に統合することに迷いがあるからではありませんか。

 

人間は長い間、その罪の意識に対する答えを神に求めてきました。

罪と罰の集大成のような神像を自ら作り上げ、罪の理由を神に求めてきました。

 

そして甘んじて罰を受けるという犠牲によってこの苦しみの溝を少しでも埋めようとしてきたのだと思います。

けだものである人間に自然の姿をした神が罰を与える。

その罰を恐れて人間は自らを監視役にしたて、監視役の顔色をうかがいながら生きる。

監視役は自分の罪悪感であり、それを投影した世間です。

自分と自分の投影である世間が作った善悪に照らして自分を裁き、世界を裁き続けてきたのです。

それが私たちの知る神と世界です。

 

これは自我が作った神とその神が作った世界です。

 

自分の周辺のごたごたが落ち着いたところで、

自己肯定感や評価が上がった所で、

承認欲求が満たされたところで、

自己表現がうまくなったところで、

なにが変わるのでしょうか。

 

私たちが自分自身への決定的な誤解を解き、深く眠らせておいた欺瞞から目覚め、自らをその地獄から救いださないでいて、いったい世界のなにを変えようというのでしょうか。

 

AZUさんと同じこと言っている人を見たことがないんですよね。

AZUさんと同じことをだいたいみんな言ってますよね。

 

両方の言葉をいただきます。

愛、神を世間のだいたいの感じで捉えているならだいたいみんな同じなのではないでしょうか。

でも、私の中では明確に違います。

漠然と肉体感覚で捉えているものを愛とも神とも私は思いません。

肉体の中にはそれは無いし、肉体はそれを知りません。

同時に肉体感覚も、です。

体感と体験は違っています。

 

体験とは意識されることです。

 

そういう前提のもとにお伝えしています。

お伝えしたことは、土台となる仕組みを捉えていただくと枝葉まで鮮明に捉えていただけると思います。

 

しかしながらすべてはわずかな意欲から始まります。

その意欲によって、頭で知っていることをなぞるのではなく、実際手に取る一つの真実から始まります。その一つを自分に適用することから。

 

神は在りてある。

在るもの以外はない。

罪はその価値を持たず、価値のないものを神は作らなかった。

永遠の平安という無限の安全を神は命とし、私たちに与えた。

 

それを体験することを私は選びます。

その宣言が、世界を変える権限を行使することになります。

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わずかな意欲でいい

究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座、本当にやってよかったです。受講してくださった皆さん、受講してくださっている皆さん、受講を選んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

第一期受講者さんの中で、癒しに関わるお仕事に携わることを目標とされていた方が軒並みでデビューされ前進なさるお姿など、究極の奇跡を見るようでした。

すべては心なのです。心が私たちを創造し、そして確実に導くのです。

 

講座の中で交わした言葉がいつも私を励まし後押ししてくれます。

 

前回の記事でご紹介した山田美那子さんのブログにある

『相手の方のお話から引き出された私の言葉は、そのまま、私が今、受け取るべき言葉だったことに気づきます』

というのが、本当に真実だと思うのです。

 

つまりすべてはひとつだから、誰かの必要は自分の必要だし、誰かの癒しは自分の癒し、誰かの学びは自分の学びなのです。

もしそうでないなら、癒すという仕事は人間にはできない仕事です。

 

癒しはこの世の法則を超えたところでの愛のやり取りですから、完全に循環するものです。

私たちが勝手に切り取って部分的に使うと不調和が起こり虚が混ざりこんできます。

虚は真実に対抗するから、神の癒しの邪魔をしてしまうんです。

 

ヒーラーは神の邪魔をしないで神に使ってもらうのが仕事なので、神のやり方をなるべく(完全なる神は完全には理解できないので)理解し、自我のやり方を熟知し(それは自分をよく学べばできます)てそれにはまらないでいることが大事だと私は思います。

 

しかしながら今日思うのは、人が幸せになることは、幸せへの道を歩くことは、

今の私が思うより更にずっと、ずっと簡単なことなのではないか、ということです。

多分、自分はたくさん訓練を受けたのです。

幾通りもの自我の罠にたくさんはまり、幾通りもの罠を抜け出すように。

それだけたくさんの罠抜けに対応できるように。

それを自分の魂が恐らく、希望したのだろうな、と思います。

 

自分ほどの苦を誰にも味わってほしくない、という気持ちが、苦しい時の自分の中にいつもあったことを思い出します。

そしてもう生きているのもつらい時には、でもこれで人生を終えてしまったら同じ苦しみの人に大丈夫だと言えなくなるという思いが何度も自分を食い止めました。

 

そして自分を癒す過程では、そういった背負った思い自体が自我なのだとすべてを否定したこともあります。

 

でも究極の心の仕組みは「(神への)わずかな意欲」さえあれば、私たちは(神に、つまり愛に)戻れると教えます。

 

ちょっとでも、変わりたい。もうちょっと、前に進みたい。

(でもどうやって?)

 

「でもどうやって?」への答えをすべての人は持っています。

すべての人が持っているものを、思い出し、つながり、使う。

そうしていけば過去のやり方は勝手に廃れていきます。

 

思い出し、つながり、使う。

それを助け合ってやりなさい、というのが神の意図です。

だから、そう決意するだけでいいんです。

 

神の意図の輪である真の自己を思い出し、選ぶこと。

毎日、毎瞬、思い出していきたいものです。

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人は人の心に生きる

2016年に東京で勉強会を何度かさせていただきました。

ご参加くださったみなさま、その節はありがとうございました。

あれから5年、早いです。

その時のテーマ、気づきを振り返って、セラピストの山田美那子さんが秀逸な文章を書いてくださったので、今朝はそれをシェアしたいなと思いながらパソコンを開きました。

 

そこでFacebookを開くと、父(声優の故・仲村秀生)と東京アナウンス学院で父が教えていた時に親交があった大学の先輩の記事が目に飛び込みました。

埴生先輩は舞台美術、舞台進行の仕事、スタジオ経営などされているのですが、YouTubeに朗読の動画を作っておられ、そこに『朗読の師匠であった、声優の故・仲村秀生と共に作っていった「読み」です』とご紹介くださっています。

スタジオの紹介と一緒に作ったのが、朗読のほうがカウントが伸びて、チャンネル登録者が1000を超えたそうです。

まずこちらをご紹介させていただきます。

 

さて山田美那子さんは度々私のブログやSNSにもご登場いただいている、とてもご縁の深い方です。私が常々伝えたいと願っていることを深く細やかに真摯に受け取ってくださり、ともに意識と癒し、人間と世界を探究してくださっている魂の友と感じる方です。

美那子さんが書いてくださった文章です。

 

『寝室に戻る』

セッションや講座の中で共に探究したことは、終わってみるとやっぱり「共に探究する必要があった」ことがわかります。

セッションや講座が終わって、一人じっくり振り返っていると、相手の方のお話から引き出された私の言葉は、そのまま、私が今、受け取るべき言葉だったことに気づきます。

「ああ、そうだったのか」と気づけば、その瞬間に許しと安堵が私自身に流れ込んできて、それを感じていると次第に相手のへの感謝と愛で今度は一杯になっていきます。

こうやってセッションや講座を通して、相手の方と自分自身の繋がりに愛や感謝を感じられるようになったのは間違いなく、心の仕組みを学び始めてからです。

先日、瞑想をしている時にふと、この心の仕組みに初めて触れた時のことが浮かんできました。

それは、私がヒプノセラピーを学びだすより前の2016年。

AZUさんが東京で開催してくださった勉強会に参加した時のことでした。

その時、AZUさんは、内なる神の元に戻ることを「寝室に戻る」という表現で私達にお話してくださいました。

生まれてこの方ずっと私達は、大きな大きなテーブルのおいてある作業場で、テーブルの上にうずたかく積まれた資料を片付けたり、書かれている問題を解いたり、読み解くためにまた新たな資料を取り寄せたりして、必死にテーブルと資料にかじりついて過ごしています。

この資料を一人で片付けなきゃ!もっと調べなきゃ!あの資料も、この資料もまだ手付かずじゃない!

もっと効率よく片付ける方法を学ばなきゃ!今の時間で終わらないならもっと作業する時間を増やさなきゃ!

こんな風に作業場で格闘しています。

でもふと思い出してみると、本当はこの作業場以外に「寝室」というお部屋があったことに気づきます。

寝室に戻ってみると、そこには心身共に安らげるベッドがあり、そこで休んでいると作業場でのあれこれは消え去り、空っぽになった心と体にエネルギーはみるみる充電され、深い安心と共に「本当のこと」が見えてくる・・・

こんなお話に引き込まれながら、うんうんと聞いていた私は次の瞬間に衝撃に襲われました。

人生のメインは、この「寝室」の方なのだということに。

今まで作業場にかじりついて、何なら他の人の分まで資料を預かり片付けようとしたり、自分なりのファイリング方法を編み出してきた私にとって、作業場を離れ、寝室に戻ることこそが人生のメインだという真理は衝撃であり、簡単には受け入れがたいものでもありました。

作業場での作業で認められ、新たな任務を命じられる時の満足感や達成感こそが生きがいだと感じていること。

でも、その一方で作業場で頑張っても頑張っても終わらないことに疲れていても、それすら認められず、自分の弱さを叱咤し、もっと強くなって沢山の作業ができるように!これが片付いたら幸せになれるのに!という人生に疑問を感じていたことも事実でした。

作業場を離れ、寝室に戻ることというのは、自我の幻想を手放し、内なる神の元へ戻ることなのですが、この勉強会での衝撃のお話が私に、これまでの思考を逆転させ、内なる神の元に戻る入口となってくれたのでした。

どんな場所や状況の中にも、求めている方の前には入口が開かれていて、でもその入口をくぐってみようとするときに、助け合ったり、手を取り合っていけることが何よりの喜びだとセッションや講座ではいつも教えて頂きます。

 

嬉しいです。

夫に読み聞かせると

「5年も前のことをこれだけ克明に自分の言葉にできるって、本当にすごい人だなあ。」

と感嘆していました。

美那子さんのホームページはこちらです。宮崎市でセッションをされています。

sanctuarymiyazaki.wixsite.com

 

人は人の心の中で生きるものだ、というのを昔はなぐさめの意味で使われるように思っていたのですが、ほんとうなんだなあ、というのが今朝の実感でした。

その中でもとりわけ愛だけが永遠に生きるものなんだな、と。

それ以外の思いはきっと時間とともに意味をなさなくなるけれど、愛だけは永遠に尊い

永遠のもの以外はできるだけ生きている間に手放していきたいと、今日も思いを新たにしました。

 

癒しとは、愛を覆い隠してしまう永遠でないものを手放すことです。

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