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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

太鼓に教わった魂のこと

SNSのほうで、諏訪・八ヶ岳地域で開催されている諏訪神仏プロジェクトについて度々書いています。概要は下記ページをどうぞ。

suwa-tabi.jp

ちょっとだけ、私が興味を惹かれ、そして深く納得した要点を書きますと、

神仏習合の神と仏は、どっちもあり、どっちもいい、というような並びではなく、

「神社に祀られる神々様も仏法という真理の中に生きている」

というように、全体でひとつの世界として理解され信仰されていたそうなのです。

そしてその信仰は1000年余り続いていました。

宗教はいつの世も政治と結びついていますが、為政者が与えた印象が強かった神仏習合の別の側面、つまり民衆が求めた神の世の在り様をそこに垣間見た気がしています。

自分がなぜこんなにこのイベントに惹かれるのかに、自分でも驚きですが、きっと長い魂の旅の記憶がそうさせるのだろうと思っています。

 

このプロジェクトの一環で、岡谷駅近くのひときわ目を引く荘厳なお寺、照光寺でのイベントが文化の日にあり、行ってきました。

 

2人、テキストの画像のようです

 

私がFBに書いたホットなレポートを貼りつけます。

———以下転載—――

今日は文化の日
文化の日を振り返るとなんとなく良いイメージ。
いつもお天気がいいからなのか。
伊勢参りに行ったのも文化の日だった。
ぜひ今日も文化的な日にしたいということで、
先日も神仏習合プロジェクトで参拝させていただいたばかりの
照光寺さんのイベントに行ってきました。
フライヤーをご覧いただくとわかる通り、
声明と和太鼓と木遣のコラボライブ。
会場は本堂。
今年は7年に一度の御柱祭
神仏分離から150年を経て、
神仏習合時代の神仏が出会うというプロジェクトの開催。
そして照光寺さんの千手観音さまは、
60年に一度のご開帳。
なんだか歴史的な年にこの地に降り立たせていただいて、
光栄というか恐縮してしまう。
この千手観音は、習合時代には諏訪大明神の仏の姿を表したという。
歴史を知ると、人がどんな思いでなにを求めなにを大切に生きたかがおぼろげながら垣間見れるのが楽しい。
このイベントはなんというか、私の好きなもの詰め合わせみたいなステージだった。
今日、このイベントに行くと決めたら、和太鼓と出会った最初の日のことをまざまざと思い出し、夫に全部聞いてもらった。
大学の新入生歓迎会がその日だったけど、しばらくの間私は和太鼓で生きていけないものか真剣に考えた時期もあった。
太鼓が好きすぎて、しょっちゅう太鼓の稽古の夢をみる。
大学の時に作ってもらったマイバチを、どうしても手放せなくて持ってきた。今もそれを大事にしまっている。ほとんどの荷物をたいがい手放して生きてきたにもかかわらず。
神社仏閣は私と夫の主要なデートスポットだった。
東京にいた頃は、鎌倉をどれだけ歩いたかわからない。
歩けるところを歩けるだけ歩いた。
思い出深いのは瑞泉寺で、あの庭を見た時、夫が涙を流したのだ。
夫が泣いたのは、沖縄で訪問鍼灸していたおばあが亡くなった時とその時と、くらい。
沖縄ではもちろん神社や拝ん所を巡ったし、高野山にも2度行った。
諏訪に来て、10月から神仏プロジェクトで休日ごとにお寺を巡ってみて、本当にいろいろなことを感じる。
諏訪は、信仰のお山なのだ。
そこに町ができた。
だから高野山にいる時のような、純粋な信仰の空気を感じる。
木遣の時、客席から合の手が入る。
よいさーよいさー
その時の手の動きに感動する。
沖縄で誰もがカチャーシーの手の動きをきれいにできるのを見た時と似ている。
2歳児でも、きれいに完璧な動きをするのを見た。
書ききれないので、これは一度ちゃんとブログに書こうと思う。
歴史あるお堂に160人ほどの観客が集まった。
魂の音と声が重なって、時空が歪み、ポータルが開いた。
なにかとんでもないところにいるような、
実は今ここがとんでもなく重要で意味のある地点であるような
「あれ、なんでここにいるんだっけ」
「やっぱりすでに違う次元にいるのかな」
という感覚がわずかな隙をついて心に差し込まれる。
こんなことが起こるんだ。
いくら計画しても、仕組んだとしても、
それがなにを意味するのかは誰にもわからないんだろうな。
などと、よくわからない納得まで心に浮かんでくる。
とにかく、祝福あれ。
これは祝福だったんだと思う。

———転載以上———

 

さて、私はという言葉を日常的に使っています。

魂という言葉を使って、みなさんに心の仕組みの話をしています。

自分にとってはとてもリアルで手ごたえのある実在です。

 

夫に太鼓を熱く語っていて、もしかしたら魂というものを強く体感したのは太鼓との出会いの時だったかもしれないと思いあたりました。

もともと和ものといわれる芸事にまったく興味がなく、むしろ好みでない、という18歳の私がとても嫌々参加した新入生歓迎会でしたが、演奏が始まった瞬間、雷に打たれ目が覚めたように虜になったのがなれそめです。

翌日からはお昼ご飯を食べる時間も惜しんで練習の列に並びました。

それで太鼓に魅了されるうち、いろいろなことがどんどんわかってきたのです。

 

叩いている人の、魂が心を打つこと。

叩く人の歓喜と音がひとつになるということ。

歓喜には恐れがなく、迷いがないこと。

やりたいのはそれだ、ということ。

これから学ぼうとしている舞台の芝居も、つまりは太鼓なのだということ。

演技がリアルだとかうまいだとかということの前に、

舞台に立つことの歓喜、迷いなく自分をさらけ出し差し出す在り様、

それが輝くことだということ。

魂の輝きだということ。

舞台という一段高いところに立って、

客席から参加してくださる観客の心を引き出し同化し、浄化する、

それが舞台役者の仕事なのだということ。

太鼓も演劇も、古来から神に捧げられ、

人を浄化し神の御前に人を連れていく役割をしていたこと。

私は学ぶ以前は俳優になって、

きっとリアルでクレイジーな演技をするのだろうと思っていたけれど、

本当の役割はそれだった、ということ。

だから舞台は神聖だし、舞台に上がるということはその神聖な場に踏み込むことだ。

舞台に立ち演ずるということ自体が祈りであり、

その鍛錬はそのまま瞑想なのだということ。

役を演じるというのは、役のその人を愛し、作品を愛し、携わる人を愛し、観客を愛し、業界を愛し、ひいては描かれる人の生きる世界を愛することなのだと。

そして描かれる世の対立と人の思いを神の御前に差し出し赦されることで私たちは癒され、また前を向いて命を生き抜くのだということ。

芝居は魂だ、ということ。

魂の目的のために、人は肉体の限界を超えるのだということ。

 

在学中から劇団の立ち上げに参加し舞台に立つという幸運を与えられた私は、芝居という道を歩みながら日々理解されていくこんなことごとに心を打ち震わせていました。

 

私は30歳になった時に、その舞台を、演劇という舞台に限定することを卒業すると決めました。

そして、6畳一間に住む今ここにいる私がいるところすべてを舞台だとして生きようと心に誓いました。

そうするしか、それ以上生きることができなかったからです。

 

舞台に立っている自分自身という存在を、私はとても神聖に感じていました。

そこにいる私は自分という殻をすべて脱ぎ捨て、自分を隠し守ろうとする服をすべて脱ぎ捨て、そして役の人が感じているだろうと思えるすべてを全神経を傾けて感じ取ろうとし、感じ取ったことをあるがままに、自由に表しました。

私は小さな自己を超える体験をしました。

その時見た景色は、奇跡そのものでした。

それは永遠に在るものであり、自分の人生を超えて価値があるものだと、体験しているさなかに私は理解していました。

 

こういう体験が後に、奇跡講座の中に在る真理の言葉を実感とともに理解させてくれたのです。

 

私は舞台にいる時、神から愛され、世界から愛され、人々から愛されているのを感じていました。ただその時は、舞台に立っている自分だけに限定されていたのです。

そして実際の自分はちっとも輝かず愛されずみじめで不自由で苦痛に満ちていると感じていました。

神は、それは真実ではない、まるでさかさまだということを私に理解させようとしたのだと思います。

 

ですから私は演劇の舞台を去り、そして本当の自分を神聖な舞台に立たせ、本当の自分の神聖さを思い出すよう導かれたのだと思います。

 

演劇の舞台を降りることは天国を見つけた人が地獄に再び落とされるような体験でした。

これ以上ない苦痛と屈辱で、そこから立ち直ることができる人などこの世にいないのではないかと思えるほどでした。

だから今幸せに生きている自分は、もうすでに何度か死んで、生まれ変わったのちの自分のような感じさえします。

これ以上どれだけ長く生きても、舞台で知った幸せ以上の幸せを体験するのは不可能だとしか思えませんでした。

もし神が存在しないのであれば私には耐えられなかったと思います。

耐えられずに、この世のすべてを憎んで憎んで自分を呪い殺していたのではないかと思います。

決しておおげさではなく。

 

ですから、人が自分を赦し、人を赦し、起こったことを素直に受け入れ、心穏やかに生活し、そして内側に神をみつけるなどということを、望むことができるだけで、それはもう、ほとんど神にリーチしていると言えるのではと思います。

 

人の思いの中にどれほどの怒りと赦さない思いが横たわっているか。

それが別の人の思惑と絡み合い、増大し、どれほどの壮大なドラマを練り上げていくか、想像に難くありません。

 

それでも、神は、在る。

それが私の出した答えです。

 

それは私の想像を超え、既存の、既知の形を超え、静寂の中から力強い手を伸ばし、私の心に触れてきます。

 

あらゆるの淡い夢をかき消し、実在の確かさだけを掴みなさいと、私に告げます。

思えば遠い太鼓から、往古から響く音を通して、告げられてきたのかもしれません。

 

内なる神聖な舞台は、すべての人の内側に、神によって創造されています。

私たちはその舞台をみつけるように創られているのです。

どこにいてなにをしていても、それは関係ありません。

でも内側の神聖な舞台に立った人はこの世界を照らす光になることができます。

そしてそれに最もふさわしいこの世での舞台装置を準備されます。

 

この世界で最も好きなものを早々にみつけ、その道を歩んだ私が、それを失ってなお与えられたのがそれです。

 

求めている方が最速最短で与えられますように。

そのための一助として働けますように。

 

感謝とともに 

AZU

 

RUACH公式サイト

https://kokoro-iyasuwa.jimdosite.com/

奇跡ノススメ

奇跡講座が気になっていて、いつか、取り組もうかな、と思われている方がいらしたら、もしくは取り組んでみたけれどちょっと手に負えない、と思われている方がいらしたら、参考になると嬉しいです。

もちろん全然知らなかった方が知ってくださるきっかけになればなによりです。

 

私と夫はかれこれ13年余り、取り組んでいます。

日本に書籍が出ていなかった頃からです。

修道女の田中百合子さんという方がご厚意で翻訳されたものを分けてくださるという噂を聞いてご連絡し、いただいたデータを自宅のプリンターでプリントアウトして取り組んでいました。

13年を超えて、今わが家で一番熱いのは、やはり奇跡講座です。

 

取り組めば取り組むほど、深く熱く、そしてそれが光になります。

様々な色の光線を合わせると、それは無色になる、と、科学で習いますよね。

まさに、心の学びとはそんな感じがします。

 

私が愛用しているのは中央アート出版の「奇跡講座」上下巻です。

夫も自分のものを持っています。

原題は「A Course In Miracles」で「内なる平安のための財団」に帰属する公認の翻訳本になります。

以前は3冊セットでしたが、今は2冊が下巻にまとまりました。

この辺のことは、本を開けばすべて書いてあることです。

 

大内博さんは日本で初めてACIMを翻訳された方で、私の母校の玉川大学の元教授でもあります。スピリチュアルの書籍の翻訳者として大好きな方です。

大内さんの翻訳での出版が明らかになり、何度も何度も延期され、心待ちにしていました。

その下地があってか、今ではたくさんの翻訳や関連本が出版されています。

田中百合子さんのものはどうなったんだろうと思っていましたが、「奇跡の道」というタイトルで出版されたことを知り、嬉しく思っています。

私の「奇跡の講座」を受けてくださった方にも翻訳家の方がいらして、翻訳したいとおっしゃっていました。いつしかその方の翻訳された本も世に出るだろうと楽しみにしています。

 

私が愛用している理由は、これが分かりやすいと感じたからです。

上巻の冒頭に「この翻訳について」という項目がありますが、これを読んだだけで「なるほど」としっくりきます。

感触は人それぞれだと思いますが、この講座の主旨と同じで、知覚の判断による「揺れ」ができる限り取り除かれていることが重要に思います。

 

さて、私はいつの頃からか「言葉」が好きです。

言葉による表現が好きだし、言葉を大切にして生きています。

私は「たくさん感じ、たくさん思考する」タイプの人間で、あらゆる五感の知覚からくる感覚や感情を「言葉に置き換える」ことで自分を整理してきた人間だと思います。

言葉に込めた思いや、エネルギーに敏感です。

そしてそこに嘘がないように、内面を検証することに慣れています。

 

言葉は意味や意図を共有することでしか、価値が生まれません。

 

1992-3年に放送されていた「ワンダーゾーン」というテレビ番組で印象的だったのですが、言葉には二通りあって、中身のある言葉と表面を表す記号の二つだと言われていました。

例えば「リンゴ」。

リンゴは木の実で種と果実と皮があり、自然の中でこんな役割をし、人間にとってはこのように扱われ、私にとってはこんな価値ある、リンゴ。

かたや、丸くて赤い、くだもののリンゴ。

 

リンゴよ、リンゴ、かわいい、愛しいリンゴ。

こう心で叫んだ時、リンゴの存在、働き、生命の影響が私の内側にもたらされる。

 

これが言葉の、意識の、イメージのちからです。

そう聞くと、それは使えると思いませんか。

リンゴにとどまらずあらゆる植物、鉱石、太陽、月、星、大気、人と人・・・

巷でスピリチュアルというと、こういう力を健康とかビジネスに役立てようという考えが多い気がします。

 

しかしながら奇跡講座を学ぶとき取り組むのは、このリンゴに込められたちからを放棄することに始まります。

 

なぜなんでしょう。

 

その答えが、すべて書いてある。しかも一つの矛盾なく。

完全な理(ことわり)と、それを超えた無限の広がりという、愛とともに。

これが奇跡講座です。

 

リンゴを、植物を、太陽を、月を、星を、大気を、人を、私たちは時に神のように持ち上げ、時に自分たちの奴隷や道具のように扱います。

 

その上げ下げの基準はいつも、自分の価値基準を対象に投影することから起こります。

つまり時々での解釈によってその価値や意味が変わるのです。

 

ひとつの事象、一人の人、一つの集団が、敵になったり味方になったり神になったり。

 

ですから私たちは一方方向に向かうことすらできません。

その時々に目的を達成しているように見えても、目的自体が一貫していません。

ただあちこちに向いて、生きているだけです。

そしてその生は、なにかの拍子に終わります。

人はそれを悲しみ、時に怒り、嘆き、諦めて受け入れたりします。

死に向き合うことは、人が最も先延ばしにする学びの一つではないかと思います。

 

そこに平安はありません。

まして恒久的な平安、つまり、これでいい、という納得、認識はありません。

どこまで行っても対極がやってきます。

対極があり、選択があり、葛藤がある。

これがこの世界です。

 

だからおもしろい、と思うこともあるし、だから苦しい、と思うこともあります。

それも同じ、対極です。

 

そして、時にはそれを神から与えられたご褒美や試練や罰として受け入れたりします。

うまくいっている時は神を愛し、うまくいかなくなると恐れたり憎んだりします。

その神には一貫性がありません。

理解も不能です。

だから私たちは根底では神を恐れ、そして攻撃し、拒絶しています。

 

コースには奇跡を通して神の被造物、つまり神の子というアイデンティティーを取り戻す理解と訓練が記されています。

それは方法論ではなく、そもそもそれそのものだった、愛を思い出し取り戻すプロセスです。

しかし同時に、それはまったく新しい体験であり、過去に知っていると思っている上に価値があると信じていたものが全くそうではなかったことを知っていくという前進です。

多くの人は、これまで積み上げてきたものの上に、更に良いものを足していくことが前進だと漠然と信じています。

しかし、神、愛、真理においては、ただそれしか持たないということにこそ、価値があります。

なにを言わんとするかは学びが進むうちに誰もが内側からわかり始めます。

入り口はたくさんあるけれど、ゴールは一つしかなく、それゆえに私たちはみな等しく神の子であるのです。

 

みな等しくひとつであるところに、私たちの本当の喜びがあります。

 

つながって、広がりますように。

感謝とともに

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]

心のセラピー公式サイト

ほんものを見分ける

この世界には魅力的なものがたくさんあるかに見えます。

自然だったり、科学だったり、歴史だったり、

技術だったり芸術だったり。

 

けれど、美しいと感じたものが一斉に色あせて見えたり、

逆にすべてが輝いて見えたり。

そういう体験を多くの人がしているのではないでしょうか。

 

私は高校生の頃、桜が嫌いでした。

それも、恐怖に追い立てられていたたまれない、というくらいに。

今はきれいだとしか思えませんが。

 

この間にある違いはなんでしょう。

 

高校生の頃は病んでいて今が正常、と言われればそれまでですが(笑)

ではなぜ人は病み、そして治るのでしょう。

 

あの人の見ている青と、私の見ているそれは

まったく同色なのでしょうか。

それが違うと、病気となるのでしょうか。

超敏感な人々と普通の人との間に、

発達障害な人と正常な人との間に、

なにがあるのでしょう。

 

こんなことを考えていると、結局人間てなに?と思えてきます。

 

そして、集団の中で、結局人間てなに?などと考えていると、

みんなが楽しんでいても楽しめないし、孤独です。

 

人生の早い時期で、

「だから楽しんでいるふりをする」

という対処を覚えるこどもはたくさんいると思います。

 

「でもそれ、どうしても楽しくないんだ」

というこどもを身近な人がどう見なすかで

そのこどもの自己認識はある程度決まってきます。

私たちは、周囲からどう見なされるかで自分を認識するからです。

 

けれどそれも、掘り下げればわかりますが

このように見なされていると認識しているのは自分です。

それを自分だと受け入れているのも自分です。

 

つまりは自分がこの世をそのように創っています。

この、思うようにならない世界を創っているのは

自分だということになります。

探究すべきはそこにある無自覚さであり、

無意識を意識化することが学びであるとも言えます。

 

「でもそれ、どうしても楽しくないんだ。

で、これが楽しいからそうするよ」

というふうに生きられる人はごく稀です。

ましてそれがずっと続くということは「無い」と言えるでしょう。

 

楽しく思えない世界を無理に楽しもうとしている間は

桜は脅迫的な狂気です。

もっと楽しいふりをしろと迫り、

脱落する恐怖を突き付けてきます。

 

 

世界がパンデミックに見舞われ、

刻々と時間が過ぎていきます。

 

なにがどうであれ、

生きている限り、人は慣れます。

 

慣れたことを人は

「これが普通」「これが常識」

と認識します。

 

それを超えたものを

異常とみなします。

 

そこに絶対的な基準はありません。

ですが私たちはいつも

絶対的な基準を探しています。

 

他者(周囲)に対して異常を感じた時、

自分が絶対的な正常基準内にいることを確認します。

安全確認をしたいからです。

 

かくして私たちは、

なるべく安全地帯の真ん中のほうに寄りたくなるのです。

その基準が無いとわかっていても。

 

アダルトチルドレン(役割不全家族に育ったこども)が、

或いはHSP(超敏感な人)が、

肌感覚による安全基準を持たないために

社会的正義に固執するようになる傾向も

こういうからくりによるものです。

 

あまりに安全基準値から離れてしまうと今度は

注目され承認されることで特別な安全基準を得ようとします。

でもこれはうまくいきません。

常に特別枠を安定させておくこと自体がさらに至難の業だからです。

 

みんな安全安心が欲しいのです。

そしてその確かさの基準を自分なりに探すのです。

 

しかし傾向というのは

つまりはなにかに比べてこっち寄りなだけです。

なにと比べるかと言えば、より真ん中よりな人と比べているだけです。

その真ん中に価値はありません。

なぜならそれは、慣れなのですから。

 

世の中の自己探求とか自己表現というものは

だいたいこんなことをやっています。

「自分を探す」とか「自分と向き合う」

という言葉で表現されているものの中身は

こういう曖昧な基準と自分を比較して

自分を認定することで

自分なりの安全地帯を築いた気になる

という程度のものでしかありません。

 

しかしそうではない、

ほんものの自己探求や

自分との向き合い方は存在しています。

 

言葉にすると同じになってしまうので

とても厄介ですが。

 

ほんもののほうは自分とすべての人を幸せにします。

 

ほんものとまやかしが同じ言葉で語られ

同じ土俵で取り扱われていることの問題は

ほんもののほうも価値がないものとして

誤ってゴミ箱に捨てられてしまう危険があるということです。

 

ほんものが存在している、と言えるのは

私たちに「本質というものがある」と言えるからです。

本質というのは傾向ではありません。

普遍的であるということです。

 

普遍性は、社会で軽んじられたり忘れられることはあっても

消えてしまうことはありません。

むしろそれだけが全存在を背負って不動です。

 

ですから私たちが本質に立ち返ろうとさえ意図すれば

そこに必ず在ってみつかるものです。

 

ただ、慣れという不安定な価値基準に自分を照らし

移り行く安全基準を追いかけ

自己認識をそこに求めている間は

それは目に入らないのです。

 

桜は

多数に愛されることに価値があるのでもなく

万人が称賛するから美しいのでもなく

 

桜は

世を照らす光を浴びて

それをあるがままに反射するからきれいです。

世を照らす光は、私の内側に在ります。

 

私は世界をそのように照らし、

そしてそのように見ています。

 

それは桜にとどまらず、

全世界に延長しています。

 

真の自己は今ここにあります。

 

 

■各種セッション・講座を通して本質に還る道のお手伝いをさせていただいています。

詳しくはホームページをご覧ください。

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