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みなさんこんにちは。 世の中はなんとも不穏な音を立てているように感じます。 そんな音、聞こえないという方も多いかもしれない。 それどころではない、という方も。
聞こえても聞こえなくても、あるものはあるしないものはないのですが、私たちの意識が世の中の映像を創り出しているのであれば、私たちは自分の中身と向き合い、より親密で愛に満ちた自己との付き合いをしていきたいものです。より良き変容のために。
自己の内面を癒やし前進していく過程で、多くの方が罪悪感というものに行き当たるのではないかと思います。意識の法則なり波長の法則なり引き寄せの法則なりを知るにつれ、外側に見えるものは自分の内面の投影だ、ということがわかるにつれ、こんな世の中を作っているのも自分のせいなんだよな、とすると、自分はやっぱりダメなんじゃないか、というような。
或いは、恋愛がうまくいかないとか、人間関係で相手に受け入れられないとか、評価されないとか、漠然と思うようにならない、というときに感じるかもしれません。
私は以前は瞑想よりも思考がまさっていましたので、やはりこのような境地にはまりました。思い切り。
どうして人間にはこうも罪悪感があるのか。それも、一般にいい人、優しい人、思いやりのある人に限って、罪悪感との葛藤を抱えています。
罪悪感があるとどのような弊害があるか、まず、受け取ることが苦手になります。いい人優しい人思いやりのある人の多くは、与えることのほうが受け取ることよりいいことだと感じています。そして、与えることのほうが容易くもあります。
しかしこう考えると罪悪感というものも捨てたものではないかもしれませんね。そもそもこれがあるからこそ、人間の欲望に歯止めがかかり、自己の本能を問いなおす機能が働いているのかもしれません。
親が子どもをしつけるにあたって、子どもの罪悪感を助長するような言葉で叱ることがとても問題だと言われています。子どもは確かに、根底にお母さんに愛されようとする本能的な欲求があります。無意識のなかでその欲求は常に働いていますから、脅しの形で子どもと取引をすると、親の推測以上に効果が出てしまって子どもの潜在意識に一つの固定観念を作ってしまいます。
ですが、だからといって、子どもをすべて肯定するとか、否定しないということがいいわけではありません。もちろん当たり前のことです。ですが、繊細なお母さんは良くないことをどこまでも排除しなければという脅迫的に近い観念を持ってしまうことがあります。完全主義という問題です。そして、完璧にできないことに罪悪感を感じて自分を苦しめてしまいます。
どこまで行っても問題が出てきてしまいますね。ではどうすればいいのでしょうか。
ものごとは二極でできているわけではありません。三次元のこの世ですら、立体的にできています。一つの立方体には六つの面があります。ものごとのいろいろな側面を知っていくと、いい悪いだけでは判断できません。罪悪感ですら、いい面があります。時と場合によります。この世には完全に無駄なものはなかなかありません。
『自己を受け入れられない』のはなぜか、と問いかけると、色々な答えが出てくると思います。自信がないから、という答えを持っている人は多いかもしれません。自信がないのと罪悪感があるのは、実は表裏一体の感覚かもしれません。じゃあどうして自信がないんでしょうか。
そうすると、幼少期が原因かしら、親かしら、きょうだいかしら、友達かしら、先生かしら、となります。それでもぴたっと来ないときは過去世の体験が原因のこともあります。
本当にひっかかって取れない観念を突破してあげるのにそのためのワークをするのはとても効果があります。
ですが、それは何のためにするのでしょうか。
どうして自信がないか、どうして罪悪感があるか、どうして、自己を受け入れられないか、どうして愛せないのか。
これは究極の問いです。
それは自分の中に何かが足りないからでも、なにか余計なものがあるからでもありません。くっつけたり、外したりするだけでは解決しません。
それは、『私たちが、古い(過去からの)価値観を持っていて、それが本当の自分にそぐわないからです。』
居心地が良くないとき、それは、世間でも社会でもこの肉体に対してでもそうですが、多く方がそこでなんとかその古い価値観に自己を合わせようと試みます。本当の自分のほうを、価値観のものさしに合わせようとします。それが問題の根っこにあります。
それでなんとかなったりうまく行っているとき、私たちは調子が良いと感じます。しかしそうしていることに疲れたり、飽きたり、魅力や達成感を感じなくなったとき、私たちはスイッチが切れたようにダウンしてしまいます。
古い価値観は生まれてこのかた、両親から学ぶ過程で受け取ったものから、社会から無条件に押し付けられたもの、集合意識的に共有しているもの、長いDNAの進化とともに持ち合わせた記憶、過去世と言われる魂の系列から引き継がれた記憶と、壮大な歴史を持って私たちに刷り込まれています。
私たちの霊的成長という挑戦はそれら古い観念から私たちが卒業していくプロセスにあります。とてもではないけれど、頭で考えて対処するレベルでは捉えきれないし追いつかないでしょう。瞑想なしにその挑戦が成立しないのはそういうわけです。
古い価値観というのは抽象的に思えるかもしれません。具体的にどれ?と思うかもしれませんが、それは空気のように身の回りにあるすべてです。その空気の如き存在に、まずは気づくこと。そして私たちが当たり前に呼吸して生きていることに気づくことから、世界の変容が始まります。
愛を学ぶというのはこういった人類の冒険の物語でもあります。