みなさんこんばんは。沖縄心のセラピストAZUです。
先にお知らせですが、トータルヒーリングスペースRUACHルーア沖縄は
ともにお盆も休まず営業しております。お盆はお忙しいと思いますが、お時間のある方はぜひご来店をお待ちしております。
また26日㈰10:00~12:00は定期瞑想会を開催いたします。ただいま3席余裕がございます。ご参加を心よりお待ちいたしております。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、私は子供の頃からあちこちいつも具合の悪い子供で、弱い弱いと言われて育ちました。母の母も幼少から体が弱かったそうで、成人まで生きられないのではと周囲から言われていたそうです。祖母は美しく聡明で優しい女性で、今で言う健康おたくレベルに健康に良いことはなんでも勉強して実践する人でした。健康法、健康食品、そして信仰まで。神社仏閣参拝にはよく連れて行ってもらいました。成田山とか、とげぬき地蔵さん、四国の金毘羅さんも一緒に歩きました。ぽっくり地蔵もお参りしてよくぽっくり死にたい、と言っていました。般若心経も祖母と一緒に覚えました。操体法なんかもやっていましたよ。早い!母も祖母の影響なのか、私に漢方薬やら朝鮮人参やら養命酒やら紅茶きのこやなんとかヨーグルトといろいろと飲ませてくれましたが、私の反応は芳しくなく、なにやっても効かない子だとよく言われていました。
今になって思うのは、それは私がHSP(hyper sensitive person)だったからで、家庭内の負の感情エネルギーと自分のカルマの影響下にあったためなのだと理解できます。簡単に言えば粗い感情のエネルギーに毒されているので良いものを入れても吸収できない状態だったのです。
インド占星術の鑑定を受けたとき、「カルマが解消されると、治療や努力の成果が出るようになる」という一文があり、ものすごく府に落ちた経験があります。当時の私は何をやってもがんばったほどの成果が返ってこないのが普通の感覚でした。ですから自分のことを「根性なしの努力不足のなまけもの」だと思っていました。
それは母親からいつも言われていたセリフだったのですが、自分で自分のことをそのままそういう人だとずっと信じていました。母からの評価もとても低かったように思いますが、それは母自身の自己評価が低かったためでしょう。
私はカルマを信じていませんでした。というより、カルマという概念をスルーしていました。前世療法とはまさにカルマ解消のワークと言っていいと思います。なのに前世療法士になってもカルマという概念をなんとなしにあいまいに捉えていました。インド占星術は誕生の星の配置から本人のカルマを読み取り、カルマ解消のために僧侶が祈りによって神に取り次ぎをしてくれるというシステムです。祈りというものが具体的に力を持って働くのだという実感をしたのはそれが初めてで驚きでした。今では、祈りは自分でするものになっていますが、当時は普通の努力もろくにできない自分の祈りが神さまに届くなんてありえないという感覚でした。
カルマは過去に自分が行ったことが自分に還ってきているということなのですが、過去世での自分の行いは身に覚えがないので意識や努力のしようがないのです。それは無意識の習慣のようなもので望まないことを知らず知らずに選んでしまいます。寂しがりやなのに更に寂しくなるほうを選んでしまうとか、どうせ失うんだから自分から捨ててしまおう、みたいなことをしてしまいます。本当はそうなりたくないほうを選んでしまうのです。結果幸せからどんどん離れてしまいます。それは過去世の体験から身に着けた防御法ですが、傷つかないように体験を避けることで、それを乗り越えることがどんどん難しくなるなどの悪影響を及ぼします。
インナーチャイルドの理論では、原因はお母さんの言動からの影響と理解されます。私も母の影響は本当に強く、そこから脱却するのに半生以上を費やした格好です。でも、それだけで自分の人生が作られるわけではありません。その母を選ぶのも、その母親のその部分の影響を受け取るのも、自分のカルマが引き寄せている、と見るのが真実でしょう。つまり原因を綿密に遡ればそれはカルマに行き着くのです。お母さんの責任ではなく、魂が持ってくる地図がそうなっているのです。
カルマを罰と受け取ってしまうと真実が見えません。良し悪しの双方にカルマの影響があります。成功しているのは自分の才能と努力だと思われるかもしれませんが、才能もカルマの一部です。
私自身の具合の悪さ、人生の苦しさと恐れは尋常ではありませんでした。ある時点まで、人生は悪夢そのものでした。今となっては過去になり感覚は薄れてはいますが、神さまは時々私の人生に起こったことを振り返るようにお命じになります。それは、私が自分の人生の体験を苦しみの中にいる人に役立てたいと神に祈ったからだと私は理解しています。自分の人生の過去の問題は片付いていますが、その時の痛みやその視野で見えていたもの、そこからどうやって光を見つけていったのか、それは何度でも思い出して自分の中に再現する必要がまだあるように思います。そうしてこそ真に共感し共に前進することが可能になるのだと思っています。
私の中に巣くっていた毒は段階とともに解毒される必要がありました。そのどの工程も省くことはできませんでした。もちろん今もまだその途上にあります。セッションは私にとって、薄まった毒を再び解毒させていただける機会です。私たちは誰しも、同胞を癒すことしかできません。
私は本当は最初から今も光そのものでした。しかしすべての工程を通ってしか理解できないものがあります。それが神の愛です。すべての道は、内なる神に続いています。自分の内にあるすべてと出会っていくのが人生なのです。ですからどうか、幸せを選んでください。それこそが神の望みであり私たちの生命を最大限に生かし輝かす選択なのです。