どのような真理の断片も言葉にすれば完全ではなくなる。
言葉は部分しか言い表せないし、切り取って取り出すことしかできない。
「求めれば与えられる」は「祈りは叶えられる」と同じことだ。
祈り方について尋ねられることは多い。
祈りには「エゴ」が含まれることがあり、エゴで祈ることを望んでいない人が多くいるということだと思う。
祈りは手段でもあり、目的でもあると思う。
祈りは、そのまま神と一つであることを表すからだ。
祈っているときにしか私たちは神とはつながっていないとも言える。
本当の祈りは、祈りはすでに届いていると理解することだと思う。
でもこれを、この世的な願望に照らして「もう既に手に入れたという文体で宣言する」のが正解、と解釈するとおかしなことになる。
「私は大金を手に入れた!」みたいなこと。
こういうおかしなことが正論みたいに飛び交っている。
こういう矛盾とか謎を、すべてクリアに理解したいなら、奇跡講座をお勧めしたい。
むかーし、夫婦漫才で「地下鉄の電車ってどこから入れたんでしょうね。考えると眠れなくなっちゃう」というのがあって、何度聞いてもおもしろかった。
同じネタで日本中が笑っていた。
「宇宙のはじっこってどうなってるの?」
「人間はなんのために生まれたの?」
「なんでこの世は不公平なの?」
「なんで悪いとわかっていることが繰り返されるの?」
考えてもわからないことは考えるべきではないんだ、という考えもある。
でも、私は矛盾に耐えられない。
小さなことから大きなことまで。
知りたい。理解したい。納得して生きたい。
知りたいことは知り得るはず。
あらゆるすべてに答えられるのが真理だと思う。
だから、真理を学ぶと、同じ疑問でぐるぐるすることがなくなる。
同じ疑問でぐるぐるすることは、矛盾を矛盾のまま、葛藤を持ち続けるということだ。
それがなくなる。
内側の戦いが終わる。
だから、恒久的な平安を得られる。
この世のあらゆる疑問があらかじめ解決されているとするなら、私たちはどう生きるか?あらゆる価値観が逆転するだろう。
答えを知るために奔走する人生ではなく、すべてが与えられていることを喜び、そのすべてを分かち合うことを喜ぶ人生。
得るために関わるのではなく、ただ与えるためでもなく、分かち合って喜び合うため。
与えるのが愛だという人もいる。
でも違うと思う。
すべての人はあらかじめ愛を完全に手に入れているのだから、まずは自分がそのことを理解し、受け入れ、あとは分かち合うだけ。
この世の、投影の世界にはどこまで行ってもない正解。
これが真理だと言える。
「この世は無い」ということをすべての人は潜在的に恐れていると思う。
だから存在を証明したいし痕跡を残したい。そのために奔走するのが人生。
でも、本当は無いとまずは受け入れてみないと、その向こうはわからない。
この矛盾だらけの、葛藤しか生まないこの世界が無いなら、本当はなにが有るのだろう?
そう、その本当に有るものだけが、私たちの本当の姿であり持ち物なのだとしたら、それをみつけないわけにはいかないじゃないか。
その入り口を神は私たちに差し出している。
言葉を通して。
究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座でみなさんと真理を分かち合っています。
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