AZU WORLD

トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

6月定期瞑想会へのお誘いと高野山への旅、雑感。

鍼灸師の夫もブログに書いておりますが、今月初旬に再び高野山へ上って参りました。

www.hariokinawa.com

私はFacebookのほうに雑感をつぶやいておりますが、こちらにもおすそ分けさせてください。(FacebookのユーザーネームはAzu Miokazamaです。良かったらフォローしてください)

おやすみいただいて、再び高野山に登ってまいりました。

前回は、ルーアにいらしてくださるお客さまから伺ってぜひ行ってみたいとでかけました。
泊まりはもちろん宿坊で。なにもわからないのでネットでの最小限の情報をもとに主人と選びました。
大圓院と、普門院。
行ってみて知った、朝のお勤め。
旅行だというのに普段あり得ない5時起き。
5時50分から始まり1時間半ぶっ通し。
これが大圓院の、1000年以上まったく変わることなく続く朝のお勤め。
普門院のお勤めは随分簡略化されていて、ちょっともの足りませんでした。

主人は副住職と書いていますが、私と同年代の大圓院の僧侶の方。なんと、弘法大師の像と面構えがそっくり。
口から出る言葉に、強さ、葛藤、優しさ、情と、いろいろなエネルギ-がわいてくる。まさに人間と仏が美しく混ざり合ったような深みのある宇宙。

こうと決めたらすべて知りたい、味わいたいという私たち夫婦の志向で、前回は高野山を隅から隅まで歩き倒し観て回りましたが、今回は主に朝のお勤め目的。(笑)ですから大圓院にシンプルに2泊いたしました。

僭越ながら瞑想会を主催させていただいているものとしての修行でもありました。
宗教宗派にかかわらず、真理を見つけた方の波動は宇宙にいきわたります。私は弘法さんのそれを感じます。
お坊さんだって、その道の途中ですから、いろいろな意識状態の方がおられます。今回は本当に、そういう宇宙を目の当たりにしました。
すべてが気づきへの導きです。

私たちが最も会いたかった僧侶、私はなんとなく予感がして、会えないのではないか、と何度も頭をよぎったのですが、的中しました。帰りに伺うと、たまたま、私たちが来た2日間、お留守だったそうです。
というわけで、これはまたいらっしゃい、完結しませんよ、という導きであろうと、ありがたく受け取りました。

今からまた、楽しみがこの世に増えました。

AZU拝

 

さて、RUACHの6月瞑想会は奇しくも23日、慰霊の日に当たります。

鎮魂と平和への祈りとともに、内なる神と触れ合いたいと思います。

 多くの方が深い祈りを捧げるこの日に、ともに瞑想できますことを大変楽しみにいたしております。現在お二人のご予約を承っておりますので催行は決定しております。

ご参加をお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

鍼灸師・ヒーラーの風間真吾と、心のセラピストAZUの主催による瞑想会です。深い瞑想は私たちを本来の無限の魂の意識へと呼び戻してくれます。瞑想の磁場と波動をご用意してお待ちしております。私たちの施術、セッションの根幹をなす癒しと瞑想の時間をご一緒にお過ごしください。

 

場所  ルーア心のセラピーセッションルーム(南城市知念具志堅34-4)

日時  2019年6月23日㈰ 午前10時から12時

ご参加費  1500円

内容  リラクセーション、ヒーリング、ボイスヒーリング、誘導瞑想、瞑想、経絡体操、シェアリング、質疑応答

定員  8名様まで(参加者おふたりさまから催行いたします)

お申込み  お電話かe-mailで、お名前と、初めての方はお電話番号を添えてください。✆ 098-928-3925 ✉ ruach@live.jp

締切  前日18時までにご連絡ください。

 

※駐車場はございますが、狭めのためお乗り合わせてのご参加は歓迎です。※お電話かメールにてご連絡ください。よろしくお願いいたします。

 

インナーチャイルドを学ぶ

アダルトチャイルドの苦しみが完治しない理由は、それまでかかったセラピストが女性だったら、というもうめちゃくちゃな男性セラピストの宣伝を見てひとしきりがっかりして、今ここに戻ってまいりました。心のセラピストAZUです。

 

男性性は男性にしかなく、女性性は女性にしかないものでしょうか。

また欠如している父性を男性に、或いは誰かに埋めてもらうことで、人の心の痛みは完治するのでしょうか。しかもお金を払って。人から足りないものを与えてもらうことで人はまともになれるとでも言うのでしょうか。

確かにそういう発想は男性性がさせるような気もします。男性を軽蔑しているわけではもちろんありません。あくまでエネルギーの話です。

そもそもヒーラーやセラピストやカウンセラーは何かをクライアントさんに与えることで埋めたりはしません。治癒はその人の内側に起こることですし、それを起こすのは神、という説明は一般には難しいとしても、少なくとも大いなる摂理がすることです。それは心においても体においても同じです。

その真実はセラピストを謙虚という愛に戻して力を与え、また守りもします。そこからぶれると癒しと関わり続けることは困難になるでしょう。

その男性セラピストのクライアントさんが癒されたのは、クライアントさんと内なる神とのつながりをセラピストが助けたからです。互いの内にある愛がそうさせたのです。男性であっても女性であってもそれは可能です。

 

アダルトチャイルドの痛みは人によっては確かに根深いものです。私自身、身をもってそれを体験しています。

それは人間形成時に個我の成長に織り込まれてしまいます。人が人としての尊厳を身に付ける際に別のものと引き換えにすることで、つまり尊厳を得る代わりになにかを差し出さなくてはならなかったり、必要な保護を与えられなかったりすることで、私たちは根深い自他への不信感や恐れを身に付けます。

育ち切る前に酷使される心には常に負荷がかかります。負荷があるままでバランスをとろうとしますから、なにかしらの補助を必要とします。

過剰にちからを入れるか、過剰に防御するか、別の仮面をつけるなどの対処です。

アダルトチャイルドは、普通でいるということに対して、非常な努力を強いられます。

安全ではない世界で過剰な消耗をしながら平静を装おうとしているのがその状態といってもいいかもしれません。

安全な状態という感覚を身体が知りませんし、力加減も知りません。ですから対人関係にも緊張が伴います。そしてそれをどこかで自分の過失だと感じています。

生きるだけで疲れています。でもそれ以上のなにかをいつも要求されていると感じています。その要求のサインをいつも他者から読み取ったり感じ取って、それに応えなくてはならないと内部で反応しています。しかし緊張が伴うため、自然に応じることができず、本当に人にしてあげられるのは思っていることの何十分の一ほどです。ですからやってもやっても自分に満足がいきません。もっと応えなくてはと内部で自分に鞭を打っています。

根深い痛みを癒すことは、本来の自分を取り戻すことに他なりませんが、本来というのは人生のある時点、例えば傷を受ける以前の自分という意味にはなりません。本来というのは、自我ではなく、真我(内なる神)とひとつである自分です。

内なる神とはもっとも純粋で高度な愛の源のことです。また人を育成するちからそのものでもあります。本来すべての人の内側に備わり私たちを生かしていますが、自我はそれを認めないか忘れています。

ここでとても重要なポイントがあります。アダルトチルドレンでない人が真我とひとつである本来の自己を持っているかと言えばそうではないという事実です。誰もが等しく取り戻す途上にいるのです。ですから苦しみの理由は他人には在って自分にはないもののせいではないと言えます。ですから冒頭に記したように、欠けているものをなにものかによって埋めてあげることで解決するのは不可能なのです。

私はここに偉大なこの世と人の仕組みと、神のはからいを観ます。これはセラピストとしての経験を重ねる中であるとき気づいた重大な真理だと感じています。

癒しは世間並みに自分を修復することではなく、傷は単に魂の前進のためのひとつの設定やプロセスであると言える根拠です。

私たちは魂が進歩するために各々ふさわしい設定を選んでいます。そしてその前進のゴールは決して、劣っているものを埋めることでも壊れているものを修理することでも、ましてや世間並みに自分を合わせることなどでもなく、神との統合であり、それが十全な愛を学び体験することだと言えるのです。それ以外の癒しはありえないと考えています。

 愛を学び体験するひとつの生命として、大いなる癒しを体験するためにそれは機会としてあるということなのです。

 

どうか、諦めずに与えられた道をお進みください。特効薬ではなく、恒久的にあなたを育て導く本当の力と出会ってください。そしてそこから直接、無限の、無条件の愛を受け取り、そしてあなたのものに、あなたの人生にしてください。

私は自分をそのように理解し、そのように生きます。

そしてそのためのお手伝いをさせていただいています。

客観的という幻想

私が身をもって理解した大切なことの多くは言葉での説明がとても難しい。例えば・・・

主観的、客観的というが、本当に客観的に観るということはありえるのか。

10人の人がひとつの空間にいて、ある出来事(ドラマ)が起こる。そのドラマに10人は参加している。或いは、参加していると意識している人と、傍観していると意識している人がいる。どの視点にいるかでその人の役割は変わるが、傍観しているつもりの人がドラマに参加していないことにはならない。

そこにいながら傍観していると自認している人は、自分に気づいていない。そして出来事は外側で起こっていると感じている。しかしその出来事は、その人の感覚器官を通して認識されている。つまりその出来事は、その人の認識を通して起こっているとも言える。

自分を当事者だと認識している人も視点は傍観者と大差ないと言える。当事者でありながら、出来事はいつも外からやって来ると人は認知する。なぜならそれは、肉体という感覚器官によって知覚されるからだ。

人の感覚器官は純粋なフィルターとは言えない。その人が過去に体験し過去にカテゴライズされたことによって確立したフィルターを通して新たな体験は処理される。つまりそこで起こった出来事はその人の過去のデータの集積の上に再認知されている。

そのように10人がそれぞれのデータの集積、つまり別々の価値観の集積という宇宙を持ち寄っている。その10の宇宙が触れ合いにより摩擦が起こり化学変化が起こる。そしてその化学変化はそれぞれのフィルターを通して処理され記録される。

そこには10通りかあるいはそれ以上のストーリーが残る。

家族間や対人関係の問題の原因の多くはそのような無数のストーリーの混乱である。

それをカルマ的なものと表現することもできる。

そこに純粋な客観性というものが果たして存在するのだろうか。

出来事が自分に降りかかっているかいなかによって、当事者か傍観者(あるいは目撃者)という認識の違いが出てくる。主観と客観と人が呼ぶものは当事者か目撃者かの違いと混同されているようにも見える。

私は人間の思考レベルにも、潜在意識レベルにも客観というものは存在していないと理解する。ストーリーも場面も、どの視点に立つかで一瞬にして変質するし、フィルターの網目の形がみんな違っているから、なにを拾うかがそもそも違う。

多くの人は物質世界は具体的で具体的なものには客観性があると認識しているように思う。私がいなくても、この世界は回っている。私がいてもいなくても、この世界に変わりはない。10人の中に私がいてもいなくても、ドラマは変わらず起こり、傍観している間にストーリーは展開し、やがて終わる。

しかし科学というデータの世界ですら、観察者によって実験の結果に変化がありうると言われている。観察者がどうあるのか、どう見るのかによって、そこにエネルギー的な干渉がある。

同じ父母からDNAを受け継ぎ同じ環境に生まれ育ったきょうだいが、それぞれの視点から父を、母を、観る。するとまるで別人の父像、母像が生まれる。別々の父母像からの同じ言葉は別々のフィルターを通して、別のエネルギーとして保存される。同じ肉体の集合体から複数の家族のストーリーが生まれる。

ましてや対立する立場から見たストーリーはいかに。

本当の客観性はどこにあるのだろうか。

それは普遍的な視野の中にしか存在しないのではないか。

自分がなにをしているのかに私たちは気づいていないということに気づいている必要がある。それなしに平和と和解というものはないだろう。

相手を尊重するということは、自分のストーリーを押し付けないことだしまた、相手のストーリーを知っているつもりにならないことだと思う。

相手のストーリーを完全に理解することは不可能だしできると思うこと自体が相手の領域への侵入になってしまう。少なくとも理解できようがないのだということを知ることは謙虚さにつながる。謙虚さは愛のひとつの形だ。

謙虚さは、自分の自我と相手の自我の間にスペースを与えてくれる。

瞑想は自分のフィルター越しの視野から離れて普遍的な視野へ私たちを引き上げてくれる。それは傍観ではなく、俯瞰の景色を私たちに見せてくれる。

その景気は私の知る限り、唯一の客観を可能にする場である。


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