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客観的という幻想

私が身をもって理解した大切なことの多くは言葉での説明がとても難しい。例えば・・・

主観的、客観的というが、本当に客観的に観るということはありえるのか。

10人の人がひとつの空間にいて、ある出来事(ドラマ)が起こる。そのドラマに10人は参加している。或いは、参加していると意識している人と、傍観していると意識している人がいる。どの視点にいるかでその人の役割は変わるが、傍観しているつもりの人がドラマに参加していないことにはならない。

そこにいながら傍観していると自認している人は、自分に気づいていない。そして出来事は外側で起こっていると感じている。しかしその出来事は、その人の感覚器官を通して認識されている。つまりその出来事は、その人の認識を通して起こっているとも言える。

自分を当事者だと認識している人も視点は傍観者と大差ないと言える。当事者でありながら、出来事はいつも外からやって来ると人は認知する。なぜならそれは、肉体という感覚器官によって知覚されるからだ。

人の感覚器官は純粋なフィルターとは言えない。その人が過去に体験し過去にカテゴライズされたことによって確立したフィルターを通して新たな体験は処理される。つまりそこで起こった出来事はその人の過去のデータの集積の上に再認知されている。

そのように10人がそれぞれのデータの集積、つまり別々の価値観の集積という宇宙を持ち寄っている。その10の宇宙が触れ合いにより摩擦が起こり化学変化が起こる。そしてその化学変化はそれぞれのフィルターを通して処理され記録される。

そこには10通りかあるいはそれ以上のストーリーが残る。

家族間や対人関係の問題の原因の多くはそのような無数のストーリーの混乱である。

それをカルマ的なものと表現することもできる。

そこに純粋な客観性というものが果たして存在するのだろうか。

出来事が自分に降りかかっているかいなかによって、当事者か傍観者(あるいは目撃者)という認識の違いが出てくる。主観と客観と人が呼ぶものは当事者か目撃者かの違いと混同されているようにも見える。

私は人間の思考レベルにも、潜在意識レベルにも客観というものは存在していないと理解する。ストーリーも場面も、どの視点に立つかで一瞬にして変質するし、フィルターの網目の形がみんな違っているから、なにを拾うかがそもそも違う。

多くの人は物質世界は具体的で具体的なものには客観性があると認識しているように思う。私がいなくても、この世界は回っている。私がいてもいなくても、この世界に変わりはない。10人の中に私がいてもいなくても、ドラマは変わらず起こり、傍観している間にストーリーは展開し、やがて終わる。

しかし科学というデータの世界ですら、観察者によって実験の結果に変化がありうると言われている。観察者がどうあるのか、どう見るのかによって、そこにエネルギー的な干渉がある。

同じ父母からDNAを受け継ぎ同じ環境に生まれ育ったきょうだいが、それぞれの視点から父を、母を、観る。するとまるで別人の父像、母像が生まれる。別々の父母像からの同じ言葉は別々のフィルターを通して、別のエネルギーとして保存される。同じ肉体の集合体から複数の家族のストーリーが生まれる。

ましてや対立する立場から見たストーリーはいかに。

本当の客観性はどこにあるのだろうか。

それは普遍的な視野の中にしか存在しないのではないか。

自分がなにをしているのかに私たちは気づいていないということに気づいている必要がある。それなしに平和と和解というものはないだろう。

相手を尊重するということは、自分のストーリーを押し付けないことだしまた、相手のストーリーを知っているつもりにならないことだと思う。

相手のストーリーを完全に理解することは不可能だしできると思うこと自体が相手の領域への侵入になってしまう。少なくとも理解できようがないのだということを知ることは謙虚さにつながる。謙虚さは愛のひとつの形だ。

謙虚さは、自分の自我と相手の自我の間にスペースを与えてくれる。

瞑想は自分のフィルター越しの視野から離れて普遍的な視野へ私たちを引き上げてくれる。それは傍観ではなく、俯瞰の景色を私たちに見せてくれる。

その景気は私の知る限り、唯一の客観を可能にする場である。


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