やさしいハーブティーが美味しいなと感じる今日この頃。
RUACH心のセラピストAZUです。
アセンション、みなさん楽しんでいますか?
それにしても沖縄へ来てからこっちの内なる気づきと進化、
その体験ときたらすごいものです。
それがとても静かに当たり前に進行していくのです。
ですが振り返るとこれらの体験は以前の私目線から見れば
予測や想像をはるかに超えています。
時々、私というものがすでに小さな私からは測れない存在として「在る」ことに気づきます。
けれどもこの在りかたというのは、なろうとか、こうありたい、という
理性的なくくりでは到底到達できないような
時空を超えた場に存在しているようです。
私たちがずっと人生の中で捜し求めている場というのは
おおむねこれ(あれ)のことなんだろうと思います。
それは通常私たちがどこかへ到達しようとして立てる計画様式とは
まったく違っています。
3次元、4次元的な思考を裏切り続けるその「やり方」というのがあり、壮大な計画です。
このことを示そうとするときにどうしても私の言葉では
「こつこつ」とか「一歩一歩」が出てきます。
まったくもって逆説的なイメージなのですが。
いったいなにこつこつなのかというお話を少し。
人間誰もが「しあわせ」であるという状態を求めていますが、
それを達成するのに必須なのは愛です。
しあわせのかたちは人様々ですが、
しあわせが何でできているかというと愛というエネルギーです。
多くの人はしあわせのかたちは違うということを
愛以外から得たものであると誤解していますが
愛以外のあらゆる要素を総動員してもしあわせにはなりえません。
あらゆる要素というのは装置やストーリーや衣装や照明や音響です。
ですがそれらに息を吹きこむのは人間です。
人間の中でも、意識の部分です。
意識ひとつで明かりは明るくも暗くも暖かくも冷たくも、優しくも厳しくも見えます。
人間の意識の中心にある核のようなものは、
全宇宙の根源的な神と同質、同等のものであり、これが愛です。
私たちはこの内なる神聖さが私たちの意識のあらゆる場所に浸透し、
いきわたらせ反映されながら生きる状態を求めています。
しあわせに生きることです。
これが魂の意志です。
そのために様々な装置や衣装やストーリーや衣装や照明や音響を引き寄せて
自分自身を活かします。
これを具体的にやっているのは潜在意識です。
そのように引き寄せられたものを手がかりにしながら私たちは演じています。
ほとんど即興ですが、演じることに必要なメモリは潜在意識の中にあるので
それを引き出したりしながら目の前にあるものに反応して人生を彩っています。
実際に重要なのは演じられているストーリーや装置その他ではなく、
その奥にある魂の意志、意図のほうです。
つまり「内なる神聖さが私たちの意識のあらゆる場所に浸透し、
いきわたらせ反映れせながら生きる状態」
つまりは愛であるという状態です。
よく起こることなのですが、人生の意味を求め探すあまりに
目の前に起こったことのほうにフォーカスして
その意味を考えてしまっている人がいます。
「この出来事の意味はなに?」という問いかけです。
そうではなく、本当に掘り下げなくてはならないのは出来事ではなく自己意識です。
現象について考えることは内なる探求とはまったく別のことです。
出来事に夢中になって演じてることを忘れている自分に気づかなくてはなりません。
そして、この出来事について反応している自分がなににどう反応して
どうしたがっているんだろう、と気づくことです。
これは自我の本当の欲求(インナーチャイルドの気持ち)に気づくこと
また、自分がいつも、自分に対してどう感じているか、ということとも意味しています。
どう感じ、どう受け止め、どう評価しているのか、
そして心のどんなエネルギーをどう向けているか、ということです。
それはまだ心の浅い部分でのことですが、
その探求なしにその先の探求はありえません。
なぜならその時点ではその無意識的な心のエネルギーが
人生の創造をほぼ支配しているからです。
次になにをするかというと、
この潜在意識の浅い部分の欲求に対して愛情で応えることです。
つまり、インナーチャイルドが「まだ満たされてないんだけど、ここが」
と言っている部分に気づき、しっかりと愛情で満たすことです。
そうしてあげると、このステージの第一場が幕、ということになります。
シチュエーションがどうであれそこで愛のレッスンをし、
どのような球を投げられても愛で投げ返すことができるようになるよう、
自分で設定を選んでいます。
ですから設定の如何によって人間がしあわせになるわけではないのです。
設定が一見楽チンであろうが誰が見ても困難であろうが、複雑で混乱していようが
しあわせかどうかとは関係ありません。
もちろんこれは直線的な次元に例えたお話で
実際はこの進行はらせん状に上昇するために
体がその場に馴染むまで何度もレッスンが繰り返されます。
本番中なので、レッスンは同じことではなく
シチュエーションを変えては繰り返しドリルのように起こります。
設定に挑むことに夢中になり肝心なレッスンが進まないときなどに
魂がレッスンに取り組みやすいようにプッシュしたり、
ガイドが助け舟を出してくれたりして、
はっと真の我に還るよう導かれることがあります。
スピリットは3次元意識のあなたがラッキーだと感じることを
えさとして与えてくれるわけではありません。
そういうときに魂がプッシュしている状態が
3次元の自我にとってはとても厳しかったり苦しかったりすることがあります。
これは3次元的な解決がもはや通用しない、という状況です。
それは困難であると同時に再生の兆しです。
古いやり方を手放し、スピリットの世界に飛び込むという表現はこのことです。
この体験によって人は「手放す」こと、「委ねる」ことの真意を知ります。
さて、この手放しと委ねるは同義語のように捉えられがちですが、
その目的語はまったく別のものです。
手放すべきもの、というのは3次元、4次元的な思考、想念などです。
執着や利己的な欲求のみならず、
このレベルでの集合意識的な価値観なども含まれます。
これらの奥にあるものを結合させているのは「恐れ」という原動力です。
つまり私たちが持っている悪意だけではなく良心や正義さえも、
この恐れに基づき結合している想念であればそれらは
私たちが手放し自由になるべき対象と言うことになります。
私たちがどんなに賢く利口になったとしても
自己を掘り下げ探求し前進するというコミットなしには
この次元で生きその次元の波動によって生かされていることに違いはありません。
またそこから放たれ自由になっていかないと、
委ねることはとても困難に感じられます。
そして委ねるべき対象の見当がつかなければ
私たちは低次の世で自分を守ってくれているエゴのよろいを
本格的に手放すことは困難です。
ですが幸いなことに、
私たちはそれを語ることはできなくても感じることはできます。
その委ねるべきものとは愛です。
愛とは宇宙の源でありすべてであり完全である神のみこころです。
私たちは生まれながらに
それを感じることができるようにプログラミングされて
その点で完璧な状態で生まれてきました。
しかしそれ以外の様々なことを学ぶうちに、
そもそも何のためにそれ以外を学んだのか忘れてしまいます。
本能が急スピードで養われ活用されるうちに、
私たちを生かしているのは本能、つまり肉体意識だというふうに勘違いします。
人間のしあわせはこの肉体意識が手に入れるのだというふうに。
私たちはしあわせの姿をみつけたとき
それに必要なのは愛だったとわかります。
そしてそのときには、過去のレッスンのすべてに
感謝と畏敬の念を抱かずにはいられないでしょう。
その想像を絶する本当のからくりは、
こつこつと一歩一歩体験してみないと理解することはできません。
このプロセスが「アセンション」だと私は思っています。
私とひとつでありきょうだいであるみなさんが
すばらしいアセンションを体験なさいますように。