ノンジャッジメント。価値判断を手放す。ニューエイジ思想などでよく聞く言葉です。私たちは日常ありとあらゆる判断をしています。人生は毎瞬が選択の連続です。選択をするためには意識的にも無意識的にも判断をしなくてはなりません。ですからこの言葉の字面の意味だけで解釈してこれを実践してみようと思うととても大変なことになります。「勝手な思い込みによる判断をしない」などという注釈もあるようですが、ではどこまでが勝手な思い込みでどこまでが公正なのでしょう。実際人間の潜在意識は思い込みの領域です。本気で取り組むほど謎は深まります。
実際の取り組みにおいて、価値判断をやめよう、やめよう、というふうに力んでしまうのは人間なら当然のことだと思います。例えば正邪の裁きから離れるというのは、ただ離れようとする気持ちだけでは決してなしえないことです。離れていない自分を更に裁くことにもつながってしまいます。実際はそれに代わる更に高次の指針、基準が必要になります。そうすると、無条件の愛、という標榜が出てきます。
無条件の愛をあなたに送ります、などという言葉の虚しさ空々しさ。無条件の愛は念のように送れるものなのでしょうか。実際無条件の愛を実感することとはどんなものなのでしょう。
無条件の愛は、神の愛、高次元の愛です。神はジャッジしない。神は正邪の判断をくださない。あるがままのすべてである。無限で無条件ですべてでひとつです。私たちはそれを限りなく偏見や既成の観念を捨て去った眼で観じて、想像するしかありません。それを体験しようと取り組むのが瞑想することでもあります。
そして、神がもし人間という限りのある肉体を持って神のような性質を活かして生きるならどんなものになるのか、それはそれぞれの人が探求し行ってみて見つけるしかないのです。それを私たちは人間として想像し得る限りの霊的な理想として求めるしかありません。
価値判断を手放すには、霊的成長を前提とすることが当然のことながら必須です。神のように(神をお手本にして)生きてみようとする、つまりスピリチュアルに生きようと決めること以外、始めることができません。そうでなくて価値判断を手放すというのなら、無法者、破綻者になることと区別ができません。
しかし今の日本には神無きスピリチュアルが横行しています。スピリチュアルをなんとなく癒し系のようなものとして扱うもの、或いは霊的な指針やお手本なしになんとなく豊かに幸せになりたいという願望を叶えようとする都合のいいレクリエーションやビジネスの手段がたくさんあります。本質という核を持たずに、道標のないまま「より良さ」を追いかけることは、実は価値判断を助長することになりえます。目的地を告げずにタクシーに乗って走ってください、というようなもの。時間とエネルギーの浪費ばかりか環境(全体)に対する悪影響もあります。
ここでの価値判断における価値というのは、人間が生きてきたこの社会を合理化するために便宜上設けてきた良し悪しの価値観全体のことです。当然ある視点においてそれらはその時々で役に立ってきました。またよりおしゃれに、よりかっこよく、より洗練された、より豪華に、より美味しくなどの趣向における価値もあります。ですからそれら自体のすべてが否定されるべきものでも間違ったものでもありません。
しかし、その価値観を、愛という観点からもう一度見なおしてみるとどうでしょう。美味しさを追求する中に、愛情や、思いやりを込めることもできますし、利益や人々の賞賛を求めることもできます。また途中までは愛情と思いやりによって構築されたものがある時点でそれを失い、名声と利益だけがひとり歩きすることは往々にして起こります。その限度や臨界点を人間が常に点検し認識することは通常とても難しいことです。
更に、それを追随する者は、最初からその名声と成功という点に惹かれることもよくよくあります。選ぶ側も、それを見分けて選ぶことは難しく、いつもその観点から観ることをしていなければその物や結果だけで判断しがちです。
それは私たちが社会的規範や集合的無意識から来る価値から基準を設け、他者や物や自分自身を常に判断していることが原因です。そしてこの価値基準は、丁寧に見直されない限りは非常に曖昧で大雑把でありながら、すべての人、すべてのものごとをとても狭い枠の中に押し込めてしまいます。
「世の中は不公平だ。」「世の中は欺瞞に満ちている。」「世の中は危険で暴力的だ。」「世の中は何一つままならない。」そして私はそんな世の中に心底疲れている。 「私は普通のことが普通にできない。」「私は多くの人が普通にやり過ごすことをやり過ごすことができない。」「私は誰にも正しく理解されない。」そして私はそんな自分に心底疲れている。以前の私の心の声です。正邪や普通という基準に照らされ縛られた非常に窮屈な価値観です。
私たち人間は確かに未知をたくさん抱え、多くの誤解をし、無知な側面を持ち、手探りです。単なる心のつぶやきですら、私たちは人間社会の規範に基いて何かを裁いています。しかしそれでも希望を持ち、勇気に溢れ、立ち向かい創造することもできます。そして希望、勇気、創造は肉体保存の本能を超えた、人間の中にある神の資質のひとつです。
神という規範、高次の愛という観点から人間を眺めた時、私たちは悪ではなく無知なのであり罪ではなく誤りをしており劣るのではなく未だ知らない者です。そのような観方を内なる世界=自己と、外なる世界=その投影に対してするとき、私たちは価値判断から自由になっていると言えます。
つまり、社会の規範を自己のものとして受け入れ採用しながら同時にノンジャッジメントであるということは(無法者、破綻者でない限り)厳密には不可能なのです。社会の規範という既存の世界を手放し霊的な本質を世界の軸であると受け入れること、選ぶことで初めて私たちは無条件の愛の片鱗にも触れているのです。