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トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]心のセラピストAZUのしあわせになるメッセージ

唯一のワーク。

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私はよく、仕組みを理解することの大切さを口にします。例えば意識の仕組みを知り理解することで、無用な疑いや迷いを大幅に避けることができると思います。自分で考えて答えをみつけることも人間にはとても大事ですが、同時に考えてもしようのないことについて考え続けて消耗したり、破壊的な思考や行動に支配されたりするのにいのちを費やすのはとてももったいないことだと思います。

人間の感覚や思考というのは環境や心の状態、体調など(自己のエネルギー状態)に大きく左右されます。ですから自分ではまっとうに理論的な考えの上に判断しているつもりでもある時には右、ある時には左にというふうに重心は傾き、その傾いたところを起点に世界を眺めています。または目を凝らして世界を見つめているつもりでも、その目にフィルターが貼り付いたりしています。目にピッタリとフィットしているほど違和感なく見ることができるので、その目自体が狂っているというふうにはなかなか気づきません。

そんな時、仕組みを知っていることで自分を客観視することがしやすくなります。全体の地図が頭に入っていると、自分が傾いているな、とか、目的地に向かう道から反れているな、とか、急ぎすぎかもしれない、などというふうに見ることができます。

しかしこれらの客観視というものを、瞑想なしに行うとどうなるでしょう。こういった行為がただのあら探しや自己批判に繋がる事になります。自分を定規で測ってはみ出す部分を罰したり嫌になったり。こういうことをしていると人間は今ある喜び、今ある創造力、生命力から遠ざかって不幸という迷妄の中に落ち込んでしまいます。

瞑想ありでの客観視では、客観視の視点がぐっと広くて高い、見晴らしの良いところになります。瞑想なしでは自分の今いる場所を特定しようとする時、どこが間違っているか、どこが他者と違っているか、かっこ悪いか、周りについて行けていないか、どう思われているか、どこが好きでどこが嫌いか、人に嫌われていないか・・・というふうに、3Dの次元で自分を把握しようとします。でも瞑想のなかで自己を捉えるとその基準となるポイントは全く違ってきます。

ざっくりと言えば自分が軽くなります。瞑想のなかで自分を眺めると、自分はなにもちからを加えずとも立っていることができます。座っていることができます。すぐ隣に比較対象する何かがなくても、安心して自分を眺めていられます。比較対象するものさしに合わせたり、合わせようとしてちょっとひっぱったりちょっと背伸びしたり、そういう小細工もいりません。企画サイズと比較して自分はこういう人間です、と語る必要がありません。

多くの人が、自分はこういう人間と言うとき、好き嫌いや二極のものの一方(明るいと暗い、大雑把と几帳面、楽天的と悲観的など)や他者との比較によって表現しようとします。瞑想はそういった浮世の価値観を外し、神(霊的な理想)の世界にある自分を見せてくれます。誰かと自分の違いなどというものは比べても価値のないことであって、神と私との関係だけが重要だと感じるようになります。そして他者との関係はと言えば、神のもとにみな平等というふうに見えてきます。もしみな平等に見えないのだとすればそれは神の視点というものから自己があまりにかけ離れてしまっているからです。近づくためには瞑想です。

自分は今こういう理由でこういう状態なのだ、なるほど、というふうに理由をみつけようとする人はとても多いと思います。理由を知ろうとすることは、仕組みを理解したいことの現れなのだと思います。私もかつてはそういうことを調べまくりました。しかし、知って納得というのはその場ではすっきりするように思えるのですが、それを積み重ねてみても気がつくと幸せにはなっていない、ということが起こります。それが長いこと続くと、知っているのにできていない自分にばかり出会うことになり、結局は人生が重たく重たくなっていきます。進化と幸福の成就のためには原則があります。それは、自ら変わろうとするか、得ることではなく手放すことによって、です。

私たちの内には神の資質が眠っています。それは人間が身につけてきた覆いによって包み隠されています。私たちは一様に思い思いの服を来て、神の資質を覆っています。そしてもっと違う、もっと上等な服を探しまわっています。或いはもっと自分に合った自分だけのための服を。そしてなかなかその服を着ている自分自身というものに気づきません。

いったん服のなかみに気づいていしまうと、服を着ることに必死になる必要がなくなります。もちろん、引き続きそれを着てもいいですし、もっとシンプルなものに着替えても(それはなるべくなかみを遮らないためにという意味で)いいかと思います。慌てて裸にならなくてもいいし、裸でいなくてはならないわけではないとわかります。ただ、服のことが気になるときには即座にそのなかみのことを思い出すようにすべきでしょう。瞑想をたくさんするのはそういうわけです。


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