私の住んでいる町は、お散歩にとてもいい場所。 八雲、碑文谷など、ただ歩くだけでとても癒される穏やかなところに囲まれています。 碑文谷のダイエーに時々お買い物に行きますが 目黒通りの排気ガスを避けて少し回り道をすると 碑さくら通りとサレジオ通りを通って行く事ができます。 サレジオ教会があることは知っていましたが 適当に知らない道を歩いて迷子になっているうち(迷子が趣味) ある日ばたっと出会いました。 サレジオ教会はとても美しい教会です。 NYでは、曲がり角ごとに教会があるというほど たくさんの教会があり 5番街にはカトリックの大聖堂、聖パトリック大聖堂や はす向かいにプロテスタントのセント・トーマス教会があり なにより私のお気に入りの場所です。 セント・トーマス教会で初めてお祈りした時には なぜだかわからないけれど これまでの人生が走馬灯のように(まさに)脳裏にあふれてきて 涙がじゃあじゃあ出て止まらないということがありました。 私はクリスチャンではないのですが キリストもマリアも大好きです。 彼らにはよく昔から祈っていますし 本当に困った時にはよく助けてくれます。 先日、サレジオ教会の前を通った時 どうしても祈りたくてたまらなくなり 正面の大きな扉に手をかけましたが3つとも鍵がかかっていました。 あきらめきれずに横の門を入ってみると 横の扉が空いていて、嬉しいことに 「ご自由にお入りください」とありました。 やった~♪ 中には人は誰もいませんでした。 NYで感じたようなびっくりするような荘厳さこそはありませんでしたが 充分に世俗を忘れさせてくれるような美しい空間でした。 私は思うのですが、祈りに慣れていないと人は 祈りとは何か物事の変更を、自分以外の存在に願うことだと思いがちではないのかな。 祈るというのは、それ自体が幸せなのです。 祈る行為そのものが幸せなんだと、先日改めて感じました。 呼吸の仕方を忘れてしまって、深呼吸できていない時 神のそばに行って(神の存在を感じながら)呼吸を思い出させてもらう・・ そうだった・・呼吸は最初から与えられていたのに 自分が心を狭めていたために 深くはくことを忘れていた・・ 深くはけば自然深く新鮮な空気を吸えるのだということを忘れていた・・ そうなんだ、ちゃんと生かされているんだ・・・ 今の苦しみの原因の変更を願うと 人は苦しみのジレンマにはまります。 今起こっていることが、すべて自分の祈りの結果だと信じることが信頼であり、 信じるものは救われるという言葉の真の意味だと私は思う。 言い換えれば、今を受け入れること。 一見よいこともわるいことも 自分の人生だけにオリジナルに与えられたギフトだと信じて受け入れ、 それが人生の恵となるような創意工夫をしていく。 くじけそうな時、神は最初から寄り添ってくれているんだと そっとその姿を見せてくれます。 大事なのは神の姿を見ることではなく 神に注文をつけることでもなく すべてを受け入れられるような意識でいられるよう チューニングをすることが祈りの効用なのかなと思います。