みなさんこんにちは。沖縄・心のセラピストAZUです。
みなさんはどんな時に癒しを求めますか?
「癒しとは幸せになることである」。「奇跡講座」にある言葉です。
私は今の道にさしかかったころ、究極それしかないんだなと思いました。
霊的成長、自己成長、精神世界、スピリチュアルといろいろな言葉にいろいろなイメージがくっついています。最も難しい言葉が「愛」なのかもしれません。
愛なしの癒しはありません。
ですから、愛なしの幸せもありません。
言い換えれば、愛は神です。
神なしに癒しも幸せもありません。
それは個人差があるでしょう、と思っている人は、失礼な言い方かもしれませんが、まだ気づいていないだけなのです。
そういった真実を、この世では真理というのだと思います。
私たちのほうで気づいていなくても、私たちにはその真理が働いています。
そうやってすべてを生かし支えているものが真理であり、それを神と呼ぶからです。
太陽が神にたとえられるのは、それが身近で分かりやすいからだと思います。
太陽なしに、今の地上の生命は維持されません。
子供のころになにかの本で読みましたが、子供心にリアルにイメージできました。
万物を生かすちからを。
しかし太陽は生かそうと思って存在しているのではなく、ただ生きている、それもまた神の被造物の一つです。
それをも生かしているちからがあります。
癒しという言葉も氾濫していますが、そこにも明確な意味があります。
この世にはいろいろな次元のルールがあります。社会の、国家の、自然の、道徳の、心情の、からだの、心の、愛の、…
愛の法則に優るルールはない、というのが真実だと思います。
それ以外のものはいつも相対的で、すべてを包括できません。
普遍的でいつも変わらないものに立ち返ると、私たちは混乱から解放され、本当の価値を内側に見つけることができます。
そこにこそ、平安があるのです。
しかしこの二元性の世界で肉体として生きる限り、私たちはいつも相対的、一時的な価値をもとに何かを判断し裁きながら生きているのです。
なにかしらの偏った価値観、つまり偏見に基づいています。
私も過去には、常にこの戦いに疲れていました。
なんとかして自分は間違った判断をしないようにいつも自分と周囲を見張っていたのです。
生きることの大部分はその判断にエネルギーを費やしていました。
そこで求める癒し、または愛、神は、自分に裁ききれない何かをもっと裁いてもらいたいという欲求から来ていました。
この世で神を求める心理の多くはそうではないでしょうか。
多かれ少なかれ、そういう心情は潜在意識の中に存在しています。
白黒つけてほしい、自分の白黒の物差しを正しいと証明したい、という気持ちです。
それが、自分を肯定されているという認識につながります。
つまりそこに安心を得たいのです。
しかし神は残念ながらそれをしません。
これまで神話の中で下された裁きはおそらく人間の潜在的な欲求の投影なのだと思います。
神は裁くことではなく、超越することでそれらを乗り越えさせてくれます。
内面のワークに取り組むと、「問題が問題ではなくなった」ということが現実に起こります。
超越的に乗り越える、言い方を替えれば「波動が上がることで、低次の波動とぶつからなくなる」のです。
さらに言えば、より高い愛を体験することがそれです。
私たちが「どうやって」そうなればいいのかわからないという壁に当たった時、神が応えてくれます。
今多くの人が、自己肯定感を求めています。そして身近に自己肯定できている人をお手本にしています。そのお手本は、うまく生きられている人、という感じではないでしょうか。
でも本当のお手本は、内側に愛を、神を見つけた人です。
インナーチャイルドワークも、過去世を探究することも、目的はそこにあります。