前回の
についてです。
私たちが「自分が癒されたように他者を癒したい」と望むことこそが学びの始まりです。そしてそれを職業にするかどうかという問題はまったく別のことです。
私は自分が癒されるよりずっと以前からそのことを望んでいました。
それは今にして思えば、すべての人の内に神がいるということへの答えです。(ただし職業にしたいとは全く思っていませんでした。)
昨日セラピスト同士のお話の中で
「自分が癒されたように癒したい」と思うことが良くないことだといろいろなところで語られている
と伺いました。
そのわけは一つだと思います。その人は本当は癒されていないから、です。聖霊に言わせれば「自分が持っていないものを差し出そうとしている」ということです。
愛が癒すと言葉で知っていても多くの人はその愛がどこにどのようにあるものかを知りません。ましてや愛と自分との関係をわかっていません。
ですから自分が癒したいと願う人の多くは、技術や方法が癒したか、その技術や方法を行った人が癒したと認識しており、自分が癒すということはその技術や方法を学びそれを施す人になることだと誤解します。そのどこに愛は属しているのでしょうか。
そもそも、愛はどこにも属していません。
私たちの既知の場所のどこにも属しません。
また、私たち自身にも、愛は属していません。
この世は愛に属していません。
癒された人はそのことに気づいています。
ですからそれについてもっと深く知りたいと願います。
そして、他者を癒したいと願うことを通してそのことを学びます。
すると、私たちは自分と愛との関係についてより理解することができるようになります。
この仕組みは神が私たちに差し出した救いの手です。
私たちはただ、その手をつかんで離さないことによって、その道を進めるのです。その他に道はあり得ません。自我は何とかして自尊心を傷つけない別の方法を探したがるものですが。