私どうしちゃったの?というようなとき、誰に相談すればいいだろう。
この世には便利なものがたくさんあるのに、本当に困ったときにどうすればいいかわからない。
こどものころの私は誰にでもオープンで正直で、みんなのことが好きでしようがないような子だったと思う。
先生やおとなのことも好きで、よく手紙を書き、受け取っていた。
父が亡くなったあと荷物を整理した母の元から、そんな手紙の箱が送られてきた。
ノートの切れ端を丸めた1センチ足らずのものなども含めて山のようにあった。私への返事もたくさんあったし、私が書いて出しそびれたものもあった。
胸が締め付けられるようなものや、恥ずかしさにおえっとなるようなものや、たくさんあった。
いつのころからか私はどんどん自分を晒すことを恐れるようになったけれど、それ以前にはたくさんの人に意見を求めたり正直に伝えたりをものすごく懸命にやっていたんだというその姿が見えた。
みんなに好かれていたのかどうかはよくわからないけれど、自分がみんなを好きだったのはよくわかった。
そして相談されたりしたことにどれだけ一生懸命耳を傾けて応えようとしていたのかも、やり取りから伝わってきた。けなげだなと思った。(一枚の紙に交互にやり取りが書かれた手紙なんかも結構あった)
教育実習の先生から、私への苦言が書かれたハガキも残っていた。身が縮む思いがするけれど、それを読んで必死に自分を省みて受け入れようとしていた当時の自分をかすかに思い出した。
恥ずかしいことだらけ。
でも、いつも精いっぱいだったんだなと思う。
おとなからは格別に褒められるか全否定されるということがよくあった。
でも自分の悩みが深くなっていくにつれて、私の問いかけに満足な答えをくれる手紙はなくなっていった。
なにが欠乏していてなにを求めているのかもよくわからなくなっていった。
探し求めているうちに、私に足りていないものは愛で、私が求めているのも愛だということがわかってきたが、愛とはなんなのかはなかなかつかめなかった。
完全な愛は神の持ち物で、人間はみなそれを理解する途上にあるのだと思う。
今はそういうことがだいぶわかる。
勘違いと誤解を繰り返しながらちょっとづつ心と体がそれをつかんでいく。
でもつかんだと思ったら見失ってしまう。
なぜならそれは形ではないから。
私たちは、愛に属している。今はその言葉が一番しっくりくる。
多くの人は、私たちの中に愛が属していると認識しているのだろう。
だから探し回ったり失ったと勘違いする。
本当はそれは最初からずっとある。
でも求めなければそれを知ることはできない。
なぜこの世にはこんなにも大切なことを相談できる場所がないのだろう。
だから私がそれになりたい。
神さまそのように私をお使いください。