瞑想が進むにつれて、小さなこと、些細なことがきわだって見えてくる。
以前だったら通り過ぎてしまったことに気づくようになる。
「じゅうたんの上に針が落ちた音さえ聞こえる」とヨギは言う。
これまで気にならなかったことが気になってくると、当然これまで慣れ親しんだ生活や、うまくいっていた処し方が通用しない事態も起こってくる。
もし目的なく瞑想していたら、この世の価値観に自分を照らして生きていたら、或いはもっと社会に適合するために瞑想していたとしたら、それは不都合なことだ。
当初の目的がたとえそういったことだったとしても、どこかの段階でそれを見直さなければ不都合は拡大していくだろう。
瞑想には師が必要と言われるには様々なわけがある。かく言う私にも、肉体を持った師はいない。
現代には情報という間口がある。でも本当に導くのは常に聖霊だ。
難しかったのはただ、自分がそれを信頼できるようになることだ。
やってみることまでは意志でできる。でも心から信頼すること、平安の中で、その導きを受け取り実際の人生を進めることは、思考や機械的な訓練にはできないことだ。
それは、愛というものに従い、愛に基づいて考え、愛という在り方を自分のものにしていくというプロセスそのもの。その歩みの中に心が変容していく。
魂の光が強くあふれ出しているのに、まったく方向違いのことを真剣に考えていてそれに気づかないことが人にはある。
そういう状態で私に会いに来てくれる人はたくさんいる。なんとなく守られてはいるけれど、実際にはどう生きていいかわかっていない、というような難問をその人は抱えている。私自身の悩みもある意味同じものだったと言えるかもしれない。
「魂の望むように生きられますように」
どっちへ向かっているかわからないときの自分の祈りはそれだった。
そして祈りが届いていることを信頼して、起こっていることを受け入れること。
それがどう見ても自分の好みや心地よさとかけ離れていたとしても、それが神から差し出された答えなのだと理解して、そこでベストを尽くすこと。それが私の通ってきた道だ。
道すがら心は「本当なの?これが?いったいなんの意味があるというの?」と悲鳴をあげる。
そういう時に神からの合理的な答えを求めたくなるけれど、そういうさなかには自分が聞きたいように(あるいはその反対のこと)しか聞こえないものだ。
神の愛を、エゴの求めるもの(あるいは恐れるもの)に変換して受け取ってしまうのだ。
心が逃げてしまう。
なにもののせいにもせずにただ、自分に与えられた道をまっすぐに進むことが本当の近道だとわかっていても、心が逃げてしまう。
もっと大きな喜びよりも、目先の安心に目が向いてしまう。
愛を求める人には本当はいつも助けの手がいくつも差し伸べられている。
傷の痛みにうずくまってしまうとその手が見えない。
これはすべて私の体験の話だ。
そしてその体験は今も続く。
忘れないように、時々更に高いハードルがやってきて、そのたびに求める磁力が強められる。
神を求める磁力が。
うずくまりながらもうす目を開けて、神が喜ぶことをみつけて選びたい。
「完全である神が唯一欲しているものは、私たちからの愛である」と敬愛するヨガナンダとダヤ・マタは言う。
この世の何を愛するよりも神への愛そのものを神が求めている。魂がその本性を思い出してあるべき姿を現すことを。
求める人とともに、それを分かち合いたい。