昨日の定期瞑想会、とても新鮮な創造力に満ちた瞑想会でした。
瞑想自体は静かで平穏なものなのに、内側の世界とつながることは、そしてそれを共有するということは、どうしてこうもエキサイティングで感動的なのでしょう。
瞑想もヒーリングも、それは欠けたものを埋めるような行為ではありません。
不調を癒し修正してくれる働きはもちろんありますが、とても創造的、発展的なことです。癒しやセラピーの言葉のイメージからこのことがなかなか伝わりにくい部分であると思います。
それはそもそも、人間が自分を肉体であると認識しているからです。
肉体とは有限であり、あらかじめ定められた生と死を辿る束の間の生き物です。
有限の肉体に宿った精神が自我です。
自我は肉体の眼で有限の世界を見て、自分とはなにものかを認識しています。
そしてその有限の自分を自我に守らせ、判断します。
「全部自分で」って、こんな感じです。
この世の善悪で言えば、まあ悪くないことです。
自我が完全無欠であることはあり得ません。
なぜなら自我は二元的要素(陰と陽など)によって構成されているからです。
自我にとっての平和は、単に争いが起こっていない時間を指します。
言ってみれば戦争と戦争の合間のことです。
そして自我にとっての平和はその合間を長引かせることに尽きます。
ですから、自我にとっては現状維持こそが平和であり安全なのです。
瞑想すると、その現状維持に意味がないことは明らかです。
瞑想とは自我ではなく真我の世界に戻ることです。
そこにはそもそも神の質がすべて備わっています。
神の質とはどんなものでしょうか。
完全な愛、一元性の光、無限性、創造と破壊の循環、調和、進化、発展、すべての原理、成り立ち、存在そのもの・・・
その世界に立ち戻る時、平和とは今ここにあるとわかります。
そして、なにが重要でなにが無意味なのかが自然に心に感じられます。
それは、二元性を超えた、永遠であるものに照らすことで「どちらでもいいもの」が握りしめた手からこぼれ落ちていってしまうからなのです。
そして、瞑想の世界に自我が慣れてくると無意味なものに反応することをからだと心がやめるようになります。どちらでもいいことに悩まなくなり、恐れなくていいものにからだが怯えなくなるのです。
そして、本当に大切なもの、自分の生命と時間を費やすことに集中し始めます。
そうして「意識的に生きること」が可能になり、私たちは生きる意味を実感し始めます。
多くの方が見失っているのではないかと、自分の体験を踏まえて感じています。
そして見つけ方も、なにが本当の問題なのかもわからなくなっているように思えます。
「生きているだけで価値がある」と言えるのは自分を取り戻した人が言える言葉だと私は思います。
本当の自分を、本当の幸せを生きましょう。
感謝とともに
AZU拝
追伸:大きな全体の変化の波が来ていて、社会にも浮上してきていることを踏まえ、SNSでももうちょっと発信することにしました。
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