過去にしでかした過ちの数々。 そのときのはずかし~い気持ちがこみ上げてくることが今もたま~にある。
でも過去にはそういうのがしょっちゅう起こっていた。 それも、ほほえましいレベルではない、悪心に近いおえっとなるようなやつ。
そういうのが、いわゆる潜在意識の記憶(エネルギー)の一つです。
その出来事は過去に完了しているのに、その感覚は今も生成され熟成され続けている。
例えばこれが、他者に向く怒りや妬みや羨望などであることもある。 またその根っこには寂しさという空洞がなにかを引き入れようとおなかをすかしている。
昔はそういった感覚の処理に追われて時間とエネルギーをさんざん費やしていた。 そのもっと昔は、ただただそれらに振り回され、なにか別のことでごまかして時間に任せていた。
そのごまかしの中にも建設的なやり方と不健全なやり方がある。
前者は仕事や勉強の成功や達成に集中するやり方。 これは、できる限り、はっきりと形になるものや体感のあるものでなくてはなならない。 曖昧な生易しいものでは、内面の不快感の勢いに負けてしまってごまかし効果がでないからである。 鍛えるとかダイエットとか、そういうものでもいい。 髪形や食べ物を完璧にしてサウナに入りまくって、ジムで走って泳いで毒を出した気になる、というのもよくやった。
後者は、だらだらと消費するもの。 お酒を飲んで忘れるとか、遊びにかまけるとか、そういう体力や資本がないときにはもう、気分がおさまるまでだらだらテレビを観ちゃうとか、今ならネットで情報の波にのっかっちゃうとか。
もちろん前者のほうが多少の前向きさは感じるものの、しばらく続けるとむなしくなってくるものがほとんどである。結局のところ、自分の芯はなにも変わっていないのだ。
そういう虚しさの段階を経て、自己への取り組みが始まった。 とにかく自分の中からわいてくる精神的な毒(抵抗)が出てくるたびにそれに意識を向けた。 そして目をそらさずにそれを感じ切ってみるのだ。
こう言うとほとんどの人が、実際にどうやるのかわからない、と言う。確かに。この感じる、というのは演劇をやっていた自分には数少ない得意技の一つに属するが通常学校で習ったり訓練したりしない分野のことだ。
ざっくり言うならとにかく、おえっとなるならおえっとなって、それからどうなるの?と、成り行きに任せつつ、その成り行きをしっかり見守る、これだ。
つまりせかしたり、予測したり、コントロールしようとせずに、自分にやらせてあげて、しかもそれがとんでもない方向にいかないように、優しく愛情を持って見守ってあげるのだ。言ってみれば自分育て、育てなおしのようなもの。
どうしてスピリチュアルの世界でこれがなにより世界を変えるカギだともっと大々的に広報されないのだろう、と思う。本当のことなのに。
私たちは多くは本当に感じていることを感じ切らないまま切り上げて、都合のいいほうに自分を曲げて適当に周囲の雰囲気や価値観に自分を合わせて生きる。でも、自分と二人きり(つまり一人)の時には本当の自分をよく観察してあげるといい。
そうすると、自由になったときの、規制がないときの自分の様子が見えてくる。
しかし勘違いしないでほしい。それが本当の自分だ、だからいつもそんな自分でいよう、と考えるのは早合点だ。
あくまでそれは、現状を把握してあげるという基本の段階に過ぎない。現状を把握しプランを立てて、魂が理想とする自分へと変容を進めるというのが、自分自身の人生の創造なのだ。 しかしその変容を進めるのに必要なのは、実は基本の繰り返しである。その基本を繰り返す行為の中に、自分への本物の愛が育まれていく。
誰もが、それをやるためにこの地球にやってきている。
人生の目的を探している人は多い。けれど自分と親密になろうとしている人は少ない。しかし自分と親密にならない限り、その目的にすら自信を持つことはできない。
本当に問題が大きくなって都合よく動けなくなるまで人は自分をほったらかして見て見ぬふりをしている。 そして、どこか知らない場所、知らない方法を見つければ人生の問題が解決し、いつか自分を好きになれると漠然と思っているのだろう。
意識の深層にヘドロのようにたまっている様々な感覚、感情、そのよどみからクリアでなくなる視界、その視界ごしに眺める世界の歪みとそこから来る見識による思い込みで、私たちの頭はいつも際限なく対処に追われている。
その営みから自分を自由にしてあげない限り、本当の自分を知ることはできない。 私たちは今ここからしか始められない。 今ここというのは、今ここにある自己のことだ。
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