この世にすべての人を救うことができる手段はあるだろうか。
その前にそもそも、人は救われたいと願っているのだろうか。
そもそも救われたいなどと思うことが負けている感じがするかもしれない。
救われたい以前に、人は勝ちたいと願っているのかもしれない。
勝った者だけが救われ、救うこともできると信じられているかもしれない。
救われたいという願いがそもそも、負けた人の思考だと言われるかもしれない。
勝っている、負けている、というところを気にするうちは、救われたいと願わないのかもしれない。
自分は勝ち負けなど気にしないと思っていても、芯から気にしない人はそうそういない。
いざ負けを感じた時、人は少なからず動揺するものだ。
この世の相対、この世の価値観、世間体、正邪、そういう二元性のものから自由になった人だけが、すべての人の救いを求められる。
自由になるためには、負けに対する恐れ、勝つことへの執着を手放さなければならない。
癒しとはその取り組みだ。
救いとは、自分だけの問題ではない。
自分だけが勝つことはあっても、自分だけが救われることはない。
自分だけが勝つことを救いとは言わない。
Twitterを眺めていて、アドラー心理学のbotがタイムラインに上がってきた。
ざっと見、基本的にそうだな、と思う。
ただ、癒される以前の自分だったら、とてもじゃないけど実践できないと思っただろう。
心の指針を実践するというのは、同意し、同調し、それそのものになるということだ。
心の訓練とはその過程を言う。
アドラーの言葉を聞いて共感したとして、そこからどういう行程を経てそれそのものになれるのか。
それは本当にやり始めてみないとなかなかわからない。
やり始めてみるとたくさんの壁に出会って行くだろう。
「あれ、そうじゃないってわかってるはずなのに、またこんな反応してる。」
そういうギャップの嵐がやってくる。
自分はアドラーによってではないが、心の訓練をしてきたものとしてそう思う。
自分の心の弱者の声と、どう付き合っていくのか。
そこからが本当の、意味のある取り組みだと私は思う。
自己の心の弱き声を「無視して」理想だけを信じ、それになりきることは可能だろうか。
そのやり方で、私たちの心は変わるのだろうか。
私たちは強くなれるのだろうか。
強くなって、勝つのだろうか。
はたまた救われるのだろうか。
勝つことは、負けた人の上に成り立っている。
だから、勝った人が人を救うことはない。
勝った人は、もっと勝とうとする。
次回もその次も。
救う人というのは、勝つときも負ける時もある。
勝ち負けは関係ない。
そういう人が救う。
そして勝ち負けに関係なく救う人は救われている。
救うというのは、負けている人に差し伸べられる救済の手のことではない。
救われるというのは、真実を自分のものとすることだ。
でも、弱い心にとって、真実は時に厳しすぎるし求めてはいるけれどそれそのものにはなれない。
その葛藤、矛盾、分離感は自分への攻撃となる。
自分を愛しなさい、という教えは正しい。
でも愛とはなにか、愛するとはなにか、それをどのようにするものなのか、私たちは知らない。
本当にやってみようとして、初めて知らなかったという真実に気づく。
知らなかった、心底知らなかった、と気づくことだけが、真実を知ることにつながる。
自分を愛することは、自分の中の弱き声を聴くことに始まる。
それ以上に愛されるべきものはない。
愛に飢え、それを必要としているのは、自分の中の弱き声だけだ。
それを飛ばして、外を変えることも救うことも不可能だ。
その飢えを満たすことができた時、自分の中に愛があったという真実をみつけることができる。
それが救われるということだ。
救われた人だけが、救いを知り、すべての人が救われることが可能だとわかる。
心の弱き声を無視して、私たちは愛を知ることはできない。
愛することもできない。
愛である真の自己には、それ以上は何も必要ないからだ。
心においての勝利とは魂の勝利に他ならない。
世の、他者との、外側の、あらゆる勝ち負けから退いた時、負け組を必要としない本当の勝利ががある。
識別のための確実な指針が、奇跡講座に網羅されていると思う。
感謝とともに
トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]公式サイト