私たち人間が生きる意味、目的は、これである、
というふうに簡単に言うことは難しい。
本当の本当は、とても単純なことなのだと今の私は思うのだが、
それを言葉にしたところで、過去の私が納得しなかったように、
人は納得しないだろう。
思うに、その単純さを理解できるようになるために、
生きてみることが必要なのだと思う。
では生きてみるというのはどういうことだろう。
ただ飲んで食べて寝て、を繰り返すことではないことは確かだ。
そんなことを繰り返したところで、
生きる意味のシンプルさを受け入れることは不可能だ。
私たちは目的を持ち、仮説を立てる。
そして可能と不可能を体験し実感する。
そしてそれをある程度繰り返すと、
できたこととできなかったことの価値についての再考が必要になってくる。
果たしてできたことが自分にとってどんな意味を持ち、
できなかったことがどんな意味を持つのか。
手に入れたものが自分を幸せにし、
手に入らなかったことが不幸にしているわけではないと気づく。
ではその幸せはなにによるものなのだろう。
その疑問に辿り着くことができたら、
その答えはすぐそこまで来ている。
生きてみることは難しいことではない。
それはある程度の欲望と、衝動が導いてくれる。
しかし、恐らくこれが現代の病なのだろう。
あたかも、人生に正しいレールというものがあるという錯覚が邪魔をする。
欲望と衝動に従うことは決して褒められたことではないが
存在しないレールに乗ったつもりで人生を送ることは、
生きる意味と価値に辿り着くことをとんでもなく先送りにするだろう。
安全で快適という幻想が私たちを更なる肉にしてしまう。
この肉が欲望と衝動によって世界から奪うものは限りない。
もし私たちが肉体という存在であるなら
その罪深さは万死に値するだろう。
そこに生きる意味や、自分という存在の価値を見出すとしたら
それは途方もない欺瞞だ。
もし私たちに存在する価値があるのだとすれば
それは私たちが肉ではなく、意識だからである。
心だけが私たちであり、
それ以外のものに意味がない。
私たちの自己認識の曖昧さが、
私たちの人生を解読不可能なものにしている。
このあと何億年を重ねたところで
この結論は変わらないだろう。
私たちが、自分を肉だと認識する限り
不幸は存在し続ける。
それを克服することはあり得ない。
ただ無感覚を極限まで拡大していくことを
選び続けるだけだ。
そうではない。
私たちは感じる。
無感覚の扉を開け
風を通し、光を入れる。
意識である私たちに必要なのは
ただそれだけだ。
隔たりを除けばいい。
一時的な不快を超えて
一続きの喜びをみつける。
自分と向き合うというのはただそれだけのことだ。
それによって、人ひとりが生きる価値も意味もわかる。
この選択をすることはシンプルだが容易ではない。
ゆえに私たちは仲間を必要とする。
私はこの世界の片隅から、心の声で仲間に呼びかける。
もしあなたが無価値感に苦しむなら
それはこの世に価値がないからであり
自信がないのであれば
それは信じるに値しないものを自分だと誤解しているから。
あなたが感じている本心はあなたに本当のことを教えている。
私たちはまだ価値あるものを、
信じるに値するものをみつけていない。
それをみつけようではありませんか。