自分のような人が世の中にどれくらいいらして、個人的な経験がどれくらい役に立つのか実のところよくわかりませんが、振り返ってみると、いつも喜んでくれる人が私の周囲にいてくれました。
自分の周りにはいつも表現を生業とするプレイヤーたちがたくさんいて、そういう友人との間では自分がしてきた探究は役に立つし必要とされていたのを改めて感じます。
プレイする人にとって一番の仕事は自分をよく知ることであり、自分という道具をよく手入れすることです。
自分が取り入れていた手入れのツールは周囲の友人にとってもたいてい役に立ったので、私がみつけてきて友人に広まるのは普通でした。
鍼灸にしろ、オーラソーマにしろ、フラワーエッセンスにしろ、チャネリングのセッションにしろ、自分がアルバイトのつもりで始めたヒプノセラピーにしろ、です。
昔の政治にとって自然の運気や人の集合的な流れを読む占い師が必要だったように、組織を運営する人やフリーランスで身を立てる人、スポーツや身体表現によって微細なエネルギーを扱う人にはエネルギーを知り、整える手段は必須なのだろうと思います。
今は人の意識は20年前に比べてもとても繊細になっていると思います。
個人の問題としてしか認識されず共有されなかった社会の様々な問題も、今は共有し理解するという姿勢が進んでいます。
その分難しいことも増えました。
以前よりもずっと、周囲の目、世間体が厳しく、合わせなければ生きづらい世の中になったとも言えます。
忖度の世の中です。
察する能力の進化と、使い方がわかっていない世の中との狭間に、いろいろなことが起こります。
それでも、私たちは今、ずっとずっと自由になりえます。
自由は心の中にあります。
なにを信じるのか、なにを大切に生きるか、選べます。
鍼灸のお話に戻ります。
鍼灸にもいろいろな先生がいます。
これは夫に出会ってから教えてもらい分かったことですが、学校では中医学は学ばないそうです。
いわゆる陰陽五行説で臓器や感情、感覚器官や気(エネルギー)などのあらゆる関係を診て整えることが病を癒すという見かたです。
巷で鍼灸と言えば肩こり、ぎっくり腰と謳われるのはそういうわけなのだと思います。
でも鍼灸には無限の可能性があります。
人間を骨格と筋肉と体液と臓器の集合体とみなすのか、それとも無限で微細な生命の表れとみなすのか。
治療を、無限の生命と向き合う神聖な行いとみるなら、私たちの使命とはなんなのか。
私は風邪の治療にも鍼灸院を訪れました。
扁桃腺が腫れて、翌日のライブで歌わなければという時、このまま寝ていても明日歌える気がしない、薬も注射も間に合わないだろうと動けないからだを起こして向かったのは、当時高円寺のカリスマと言われていた鍼灸院でした。
その先生がすごいという噂をまったくかかわりのない3人の人から立て続けに聞いていました。
その治療院から徒歩5分ほどのところに住んでいたのは幸運としか言えませんでした。
店の前まで行って電話をかけ、「喉が腫れて明日のライブに歌えません、お願いします」と懇願すると、「もしかして店の前にいる?しょうがない、わかった」と。
「嘘みたいに治るか、酷くなってまったく声が出なくなるかどっちかだよ。
その賭けにこの治療代(初診料含めて1万数千円)は高いかな」
と先生は言ったけれど、驚くくらいに迷いなく、「お願いします」と言った私。
なぜなんだろう。今考えると怖いですね。
首を貫通できるくらいの長い鍼を喉に5本刺されて、「あ、効いた。これで治る」と確信がありました。先生も最後の1本で「よし!」と確信していました。
翌朝、あの気道がつぶれるような炎症が去り、まだ違和感はあるものの、嵐の後の静けさのような清々しい感覚さえありました。
熱も下がって、生まれ変わったような、自分が新しくなったような感じです。
さて、現場で私を気にかけてくれたのは、まだ鍼灸学校の受験生だった夫でした。
スタッフを頼まれアルバイトで来ていたのです。
いざ本番になると、普段よりというよりそれまでより、格段に喉が開いているのがわかりました。
イベントが終わると夫が目の前に立っていて、「これでまたアズちゃんのファンが増えたね」と言ってくれました。それがなれそめです。
それからほどなく夫は鍼灸の学校にパスしました。
彼がどれほど真剣に学んだかも、どれほど訓練を積んだかも全部見てきました。
最初のマッサージがどれほどへたくそだったかも、どれほど上達したかも。
沖縄ではプロのクラッシックの演奏家の方々など様々な方がご自身のメンテナンスにいらしてくださいました。
私たちはいつも、自分にとっての理想を求め、自分たちの「あるといいな」を提供したいと願っています。