今、平安ですか?
その平安に理由はありますか?
神は神の子である私たちに平安であるように求めます。
そうすると私たちが神のもとに戻ってこられるからです。
平安であるために、私たちはその条件を整えようとします。
平安を乱すものから逃げたり、戦ったり。
問題が無いふりをしたり、感じないようにしたり。
かたっぱしから解決を挑んだり。
どんどんこじらせています。
すると神を求めるのは難しいことだと勘違いしていまいます。
自我の知っている平安は条件付き、期限付きであり、外側への反応、反射です。
神の平安は無制限で恒久的で無条件です。
これが違いです。
求めるなら神の平安にかぎります。
探すべき場所は私たちの心の内にあります。
外とも体とも無関係の場所です。
瞑想はその場所へ行って居座るためのものです。
結果、いろいろな嬉しいおまけがついてきますが、おまけをもらいに向かっていってもそこには到着できません。
副産物は目的になり得ません。
副産物を求めている時、私たちは欠乏を感じています。
欠乏を感じている時、私たちは恐れています。
恐れている時、私たちは源、つまり神から分離していると錯覚しています。
神は私の欠乏を理解しておらず、必要を満たしていないと信じています。
欠乏を埋めることで私たちは一体性を取り戻そうとしていますが、副産物でそれを取り戻すことはできません。
一体性は、一なるものにしかもたらすことはできませんから。
副産物を求めることが悪いのではなく、副産物を求めている時点で私たちは間違った場所にいる、と言うことができます。
まずはその間違いを修正してもらう必要があります。もちろん神から。
間違った場所とは、神が創っていない場所、つまり幻想の中です。
そのことに気づいたら神に戻れるようにお願いして、そして心の平安の場所へ帰ります。
神のお部屋に戻って自分を眺めると、問題が良く見えてきます。
問題とは、自分が間違った場所に迷い込んだ時に脅威なのだということがわかります。
このおもしろいゲームのからくりを知ったら、私たちが神に求めることは、神に戻ることだけだとわかります。
問題にかかわる人を自分も含め、少しでも咎めたり、どんなに小さくても攻撃し防御している時、このゲームから抜けられません。
自分は怒っていないと思っていても、「怒ってないけど、やっぱりあの人(出来事)が原因だよな」と思ったら同じことです。
ゲームは続けようという同意のもとに続きます。
降りる、と決めて、その決断を神に通知するまで続きます。
降りられないのは、存在し認められたいという自我の根底的な欲求に基づいています。
自我の根底的な欲求を取り下げるのは怖いことです。
それは死と似ていますから。
それを取り下げるには、永遠無限の命への置き換えが必要なのです。
私たちが肉体ではなく意識であり、即ち永遠無限の命が自分であるという自己認識の変容が。
しかしながらその変容とは本来に戻ることであるがゆえに自然なことです。
真実は自然であり優しいのです。
永遠無限の命である私を選びなおし幸せに生きることは、友を幸せにし、世界を幻想から救います。選びなおす価値があるものです。
肉体のある間にそれをもう一度やってみませんか。
求めて失敗する人はいないと神も保証しています。
この謎解きはおもしろいですよ。