「自分が知らないということを知ること」は心に自由をもたらす。
真理もそう語る。
「きわめて重要なことは、自分は何も知らないと学ぶことである」と。
夜空や大地を眺めて感じる壮大さは、自分が小さき者であることを想起させ、安堵させる。
しかしひとたび等身大の自分に戻れば社会とその中の小さな役割を背負い、その小さな役割の中でつぶされそうな自分に出会う。
そうではなく「自分は宇宙に等しい壮大な存在で、ただそれを思い出すだけでいい」
というのが真理だ。
そこで人は、「だからこのままでいいのか」と思ってみたり
「神たる自分なのだから思うように生きれば良かったのだ」と思ってみたりする。
或いは「神たる自分の神的な能力を”思い出して”世の勝者になるのだ」と思う人もいるだろう。
世の中のラインナップはだいたいそんなものだ。
それでなにか変わるだろうか。
私たちは変わることによってのみ自由である。
無限に変化する余地こそが可能性であり希望だ。
宇宙に等しい神たる自分がなぜすべてを愛さずすべてを癒さず誰も助けないのだろう。
それどころか、相変わらず自分すら助けられずにもがいている。
無力から無力へ。無力を知ることが悟りなのか。
傷ついた人は、世の中の多くの人が勝者に見える。
少なくても自分よりは楽して生きているように見える。
せめて、あれくらい楽であれば文句ないのに。
世の中はどこまでも理不尽で不公平だ。
それに不平不満を抱かないようになりたいあまり、できるだけ見ない言わない感じない戦法をとる人もいる。これは防御でしかない。防御は攻撃と同じだ。
それとは逆にあらゆる理不尽に噛みつきまくる人もいる。
直に噛みつくのはリスキーだから、「毒を吐く」ことで解消しようという人もいる。毒を吐いても自分はいいことしかしないいいひとなのだからそれでいいでしょ、という人もいる。
どこまで行っても不満の連鎖だ。
この世のエネルギーはただ移動する。
熱がただ移動するように。
空気を水を汚しても薄まればわからなくなるように。
これがこの世界のエネルギーの法則である。
なにも裁かない、裁いてはいけない、と言われるとただ自分の中に留めるしかない。
私たちはまったくわかっていない。
なにが苦で、なにが救いかを。
自分がなにをしているのかを。
裁きは神にお任せしよう。そして私は自由になります。
真理はそう教えている。単純なことだ。
問題なのは、自分が裁いていることに気づけないことだ。
やってもやってもちっとも楽にならない理由は、
私たちが原因と結果という裁きでできた世界で、
それそのものとして生きていることに、
私たちがまったく気づいていないからなのだ。
愛に対してすら常に対価を求め、
求めてしまう自分を裁き、
そしてあきらめることはしても、決してゆるすことを許さない。
自分が信じている夢から覚めるには
まず覚めようと決め
そして真実に少しずつ入ってきてもらうことだ。
私たちは自分を卑小にみるように神を過小評価しすぎている。
或いは自分を尊大にみすぎて神を見失っている。
常にこのどちらかを行き来している。
姿や行いでなにをするかではなく
心でなにをしているか。
それを見直すことから目覚めは始まる。