潜在意識はほとんど誤解されていると思う。
潜在意識の中身を厳密に吟味したことがあるだろうか。
確かに理性(と私たちが認識しているもの)と潜在意識はおおむね対立し、対立すれば必ず潜在意識が勝つ。
顕在している意識と無意識では無意識が大きく、ゆえに強い。
早起きしたい
規則正しく暮らしたい
間食をやめたい
勉強に集中したい
ダイエットを成功させたい
業績を上げたい
対人関係が苦しい
お金が欲しい
好きなことをやりたい
好きなことで稼ぎたい
恋愛を成就したい
結婚したい
子供が欲しい
子育てが苦しい
配偶者との関係がつまらない
親類縁者ともめている
病気を治したい
長生きしたい
健康でいたい
認められたい
それらを思い通りにするためには、潜在意識をみかたにすればいい、と人は言う。
或いはそれは過去によって決められたカルマだから変えられない、と人は言う。
潜在意識は「自我の」図書館みたいなものだ。
過去の経験から肉体の目的にとって有効だった、或いは脅威なので要注意となっている、あらゆる記憶が記録されている。
私たちはこの情報を無意識にキャッチしながら、この世界を生き抜いている。
ただ生き抜くために生きている。
これらはすべて幻想に属する。
つまりは赦しによる訂正と取り消しの対象と言える。
浮かんでは消えていく、その時々で正しさが変わり価値も上下する情報たち。
そしてその価値は自分が決める、と主張する自我。
それこそが創造であり自由だと勘違いする自我。
そのすべてが幻想に属する。
違う特性、違う傾向、ばらばらの外見を備えた乗り物に乗って、同じ目的、同じルール、同じゴールを目指す、というのが真理だ。
しかしその乗り物には自我の図書館から持ってきた書物が積み込まれており、その書物には独自のルールが書き込まれ、その目的は「より生き抜くため」と書かれている。これが自我の描く世界だ。
違うルールで走行する乗り物同士は当然ながら摩擦を起こす。それを攻撃とみなし、防衛したり攻撃しかえしたりしている。よりうまく攻防することが、時間とともに訓練されていく。
しかし自分の乗り物の目的がそもそも攻撃と防衛を前提としていることを私たちは忘れている。
自分が独自ルールに従っているから攻撃の的になっているということは忘れている。
更に、本当の目的とそれに即したルールブックが存在していたことさえ。
乗り物(肉体)を自分だと認識している限り、本当の目的は思い出せないし、もちろん本当の自分とはなんだったのかも思い出せない。
本当の自分を思い出すために潜在意識をいくら捜し求めてもそこに本当の自分はいない。潜在意識を超えた向こうにそれはある。
そこへ行くには赦しを適用せよ、と真理のルールブックには書かれている。
みんな、自我のゲームにうんざりしながら、それでも負けたくないし、降りたくない。
自我が負けない方法は、赦さないことだ。
真逆なのだ。
自分を真実に目覚めさせる唯一で最速最善のやり方は、赦しだと私も思う。
ちなみに私は、「最もゆるすのが難しい人をゆるしてみなさい」という言葉に従ってみたことから、自分が最も求めていたものを受け取ることができたと思う。
その時私が幸いだったのは、その言葉を見た時、最もゆるすのが難しい人がすぐにわかったことだった。
多くの人は、なにをゆるせていないのかがわからない。
それがみつかれば、そしてゆるすことを選んで光の下に差し出せば、苦しみは消える。
これは本当のことだ。
なにをゆるせていなのか、を一緒にみつけるのが私は好きだ。
そこに向き合おうとする人のことが私はとても好きだ。
自ら差し出し、受け入れ、変わろうとする人は美しい。
どんなに不格好に見えても、へたくそに見えても、その試みは必ず成功する。
その人たちと共に生きたいと心から思う。