みなさん、こんにちは。
今日は、昨年12月に続く「奇跡の講座」のグループミーティングをさせていただきました。
前回の記事はこちらです。
私が行っている「究極の意識の仕組みを学ぶ奇跡の講座」と山田美那子さん(=宮崎のカウンセリングルームSanctuary)の「心の仕組みと共に学ぶ奇跡の講座」の受講者のみなさんの集いで、山田美那子さんと共同で主催させていただきました。
今日も示唆に満ちたすばらしいミーティングでした。
ご参加くださったお一人お一人がご自身の心を内に向かって掘ったトンネルが、深いところでひとつのスペースにつながったような幸せと喜びを感じさせていただきました。
楽しいとはこのこと。心がひとつだというのは本当だと実感します。
道端の看板なんかで「神は心を見る」(聖書)などと書いてあるのを見ると、まるで私たちの心が良いか悪いかを神が見張っていて裁くかのような、ちょっと脅しめいた感じを感じませんか。
しかし本当の意味はこうだと奇跡講座にはあります。
「神は心しか見ない」。なぜなら神は心しか創造しておらず、ゆえにそれ以外のものは実在していない(無いから見えない)と。
こうなると解釈(イメージ)がだいぶ違ってきます。
私たちは神を、自分たちが知っている何かになぞらえて理解しています。
例えば世間の目だとか天変地異を神からの罰だというように、自分の罪の意識を神の裁きに重ねます。
自分が作り出した自分の価値基準に照らして「神を判断して」いるのです。
そして神を誤解しているということは、神が創った本当の自分をも、まったく理解できない、できていないということです。
さらに、「自分をどうみなしているのか」が世界に投影されます。
罪があるという自分が世界に投げかけたものが世界に映し出され、自分に返ってきます。
その返ってきた世界を見て、私たちはその世界から身を守ろうと防衛(攻撃)しています。
この堂々巡りを考えてみてください。
私たちの作った世界とは、自分が作り出した脳内敵と戦い続けるという仕組みでできているようなものです。
神はその狂った世界から、愛だけで満たされた世界に戻っておいでと言っています。
奇跡講座は、何も隠さず、明確に、単純に、その道を示してくれています。
これまで何千年もの間、その帰り道は限られた人だけの、何かに到達した人だけの道のように考えられてきました。
それもきっと、私たち人類の神への誤解がそうさせているのです。
神が誤解されるということは、私たちが自分への認識を間違えているということであり、愛についても同じく誤解しているということです。
私たちがこの誤解を解いて理解を共有するということにどれほどの価値と意味と、パワーがあるでしょう。
世界を変えるに違いないはずです。
そのために私たちは、赦すだけでいいのです。
いえ、赦すと決めるだけで。
私は奇跡講座とまだ出会っていない頃、苦し紛れにあることを実行しました。
それは「この世で最も許すことが難しい人を許しなさい」という本の一説の実践です。
私の混乱した人生を見回してみて、最も不条理で暴君で、自分に恐怖を与えている人はすぐにみつかりました。
そしてなにも考えずに、その人を許す、と決めました。
ただ心の中で、強くはっきりと、この人を許します!と言っただけです。
私がやったことはただそれだけでしたが、それからすべてがそうなるように自然に動いたのです。
そしてその人を完全に赦すどころか、この世で最も愛しい人だと感じるようになりました。父のことです。
それだけでそれは充分に奇跡なのですが、そのことによって私は失ったすべてを――神と愛と、そこへの信頼と確信を、結果的に取り戻すことになったのです。
神と愛、それは本当の自己への認識です。
私はなにを持っていようといまいと、どこでなにをしていようと、本当の私にはまったく無関係で、本当の私は、私の心の理想そのものの姿をしていて、まったく損なわれることはない、という真の自己認識です。
そうである私はそうであるがゆえに、他者のなかにも同じものを見つけることができる。
それは永遠に不変で、信頼に値するものである。
その真理が取り戻されたことにより、私は人を愛するということが可能になったのです。
こうして書いてみて、私が私の人生に最も必要としていたものがなんだったか、そしてそれが、確かに失われ損なわれていたことがわかります。
私は、愛したかったのです。
でも私は傷つき、恐れ、そこから自分を守ろうとし、攻撃し、許さない思いを心に持つことで、防衛に拍車をかけました。
結果神は私の心から締め出され、私は自分を誤解し、自分が愛に値しないとしか思えなかったのです。
愛に値しないというは、愛してもらえない自分ではなく、愛する自信も力も機能も失った自分だったのです。
そんな自分がなにをどうしてなにを得たところで、決して満たされることがないとわかっていたのです。
それは絶望そのものでした。
私たちは自分の力で赦すことができません。
というより、赦していない私たちは自我の力で生きているために、赦すことができません。
赦すには神の助けが必要です。
赦したとき、私たちはありのままの姿、愛に戻ることができます。
その時私たちは、神と同じ、無限に愛する力を取り戻すのです。
赦さないままに、制限付きの私たちが制限付きで愛するのは、もはや愛ではありません。
私は愛したかったのです。
そして、私は愛することができます。
地上の多くの人が抱えている様々な問題に見えるものを集約すると、それはこういうことなのかもしれません。
人が神の創ったままの神の子であるなら、その機能は愛することであり、恐れることはその機能を奪います。
けれど神の子の本来の姿を取り戻したなら、そこに問題は存在することができないのです。
愛することを始める。
気まぐれで移ろいやすく実態のない愛に似たものではなく、本当の愛を。
そんなこと誰でもできるから価値がないという人、誰にもできていないからやってもしょうがないという人、様々かもしれません。
でも本当は、愛だけは確実で実態のあるものです。
それが真実です。
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