この世では、みんなが決めたルールを守らないことが悪です。
でもみんなが決めたルールは変わっていきます。
特に最近では、このルールの根拠があまりにいい加減だったことや、明らかに歪み偏っていたことがどんどん明らかになっています。
つまり悪だと信じていたものは悪ではなく、善と信じていたものも善ではないということです。
この世界には暗黙のルールがあります。
その暗黙のルールは、多くは私たちの恐れと防衛から形成されたものです。
傷つきたくない、不快な思いをしたくないという思いの奥には「敵がいて攻撃される」という前提があります。
みんなが気持ちよく過ごせるようにと作られたルールは本当に「みんなを」幸せにするものでしょうか。
それともみんなの多少の犠牲の元に明け渡された汚れていない公園のようなものでしょうか。
暗黙のルールは、悪だと信じているものから自分を守るために、そして自分が安全な側にいるという確認のために心の中に線を引きます。
この世界のすべては、こういう心の中の暗黙の線引きによって作られています。
これを奇跡講座では、自我の知覚と言います。
永遠に正しいもの以外はすべて、自我の知覚が作るルールです。
私たちが誤解しているのは、この世には永遠に正しいものと、そうでないものの両方が実在していると認識しているところです。
奇跡講座の教えこそ真理だと私が思うのは、永遠に正しいものに対立することは不可能だといっている点です。
そして真理が優しいと私が感じるのは、永遠に正しいもの以外のものを神が創ったと思っているのは私たちの勘違いだと言っている点です。
永遠に正しくないものを一時的に正しいと信じ切って戦っている私たちは、幻想を信じ幻想を作っている張本人だということです。
だから、問題はそれだと気づき、それを放棄すればいいのです。
対立しているものはつまりは双方とも幻想です。
子どもの頃、けんか両成敗とよく親から言われました。
このことにおいて自分は絶対に正しいと信じてそれを認めてほしくて一生懸命に伝えても聞いてもらえないのは本当に理不尽でした。
今でもこの世界では理不尽なことだらけです。
ただ神の目には、愛の前では、一時的な勝利は価値がないどころか無いだけ、ということです。
神は私たちに永遠の勝利だけを与えます。
永遠の勝利とは心の中に一片たりとも罪を持たないこと、でしょうか。
例えば子育て方法の中にこれはいい、これはダメ、とたくさんの項目があります。
でもそれを行使する人が暗黙のルールに縛られながら罪を裁くなら、その縛りと裁きがあらゆる行いを通して子どもに伝わっていきます。
結局のところ、私たちはこのテーマに辿り着かない限り、似たところをぐるぐる回っているのです。
それもこれもすべては愛に辿り着くための道です。
人が内なる神の子を思い出すまで、そして自分がそのように創られたそのような存在だったと思い出すまでの。
一瞬の間静まり、そして望めば、それは私たちの最も近いところに片時も離れずともに在ったことがわかります。
トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]