奇跡講座には、「感情には2つしかない」とあります。
愛か、恐れか。
人間には様々な感情があり、それゆえに豊かなのだ、という考えもあるかと思います。
すべてに意味がある、という見かたもあります。
けれど多くは問題を長引かせたり、自分に嘘をついたり、ものごとをどんどん複雑にして、結果的に真実を自分に隠すことになると、私は思います。
あらゆる微細な色彩の感覚の背後には、愛か恐れかのいずれかの感情があると見るなら、否定ではなく、むしろ受け入れることを可能にします。
そしてこの見かたをすることは、自分を理解すること、あらゆる問題の解決や、意識の前進につながります。
通常、今の自分を理解しようと考えると、私たちは過去の成り立ち、出来事、流れを把握し、そこから現状に至るまでを解析するようなイメージを持っています。
実際のところ私たちは同じシチュエーションに立たされたとしても、受け取るものも違えば感じ方も違います。
当然そこから生じる反応や対応も全く違います。
他人にアドバイスを求めれば、人の数だけベストアンサーが返ってきます。
それに順列をつけて、なにが最善かを考えるなんて馬鹿げています。
設問そのものが間違っているのです。
ですからなにかを他者と共有するなんて、ほとんど不可能に見えます。
私たちが理解し合い共有し愛し合うことを不可能に見せているのはこういう理由だと思います。
でも、愛か恐れかという見かたを採用するなら、こういったコミュニケーションの根本的な問題を解決できます。
感情には愛か恐れしかないということは、私たちは愛の状態にあるか、恐れの状態にあるかどちらかしかないということです。
どちらでもないけどな、と思うかもしれませんが、よくよく観察してみると本当にそうなっているとわかるはずです。
そして、放っておけば私たちは人生のほとんどの瞬間を、恐れの状態で過ごしています。
そして恐れているからには、攻撃か防御をしているのです。
もちろん心の中でですが、それが姿勢や態度全体に表れています。
人生のほとんどの瞬間を攻防しながら、愛することは不可能です。
ですから私たちは愛を求め愛でいるつもりでいても、ほとんど愛を知りません。
私には愛があるけどあの人にはないとか、他の人々は愛を持っているのに私には与えられないという理由で私たちはいつも不平を感じ、公平がなされないことに恐れを持ち、内側に不満を抱え、そして攻防しています。
でも、無意識に恐れ、無意識に攻防している私たちは、愛を与えてもいないし受け取ってもいません。
まして攻撃している状態で、愛(理解)を求めることなど不可能なのです。
この世のあらゆる問題は、人と人との間に起こります。
そして愛への誤解によってその問題は膠着します。
家族だけではありません。
職場で、お店で、学校やPTAなどあらゆるコニュニティーで、同じことが起っています。
その時真っ先にに見直すのは自分が今、愛なのか恐れなのか、です。
問題を感じているからには恐れにあることは間違いありません。
恐れにあることを自覚できたなら、次にすべきは、愛に戻ることだけです。
私なら「愛でいさせてください」
そして「違う見かたをさせてください」と祈ります。
そうすると、自分が相手(状況)に投影していた恐れの正体が見えてきます。
そこまでいけば、相手(状況)は、愛を選ぶきっかけを与えてくれたに過ぎなかったとわかります。
そして、相手に恐れを投影することを選んでいたのも自分だったとわかります。
ここまで来れば、相手をゆるすことは難しくないどころか、誤解し攻撃していたことを謝りたい気持ちまで出てきます。
そして最終的には誤解していた自分をゆるすことが一番大切になります。
そうしてまたひとつ、愛に近づくことができました、というもうひとつの美しい物語が生まれます。
人生のすべてをこうやって美しい物語に変えていくことが、私たちが聖なる意識とともに行う創造のすべてなのだと思います。
これは時間を超えた奇跡なので、あらゆる過去をも変えることができます。
「潜在意識を書き換える」ことで言われるような、自我をより良い自我に変えることではありません。
赦しに根差したものだけが本当の変化です。
愛か、恐れか。
愛は意識的に選ばれない限り、幻想のベールの向こうです。
そして私たちは愛を知りません。
知らないものを選ぶには、聖なる助けが必要です。
それは祈りによってなされます。