インナーチャイルドや過去世の想念(記憶)を解放するという仕事をしているけれど、自分を変えるというのは結局、心を変えることだけ。心を変えることがすべてを変える。
真実は極めてシンプルなのに、あまりにがんばって人生を闘っていると、どんどんいろいろなことが難しくなっていってしまう。そういう方によくお会いするし、なにより自分がそうだった。
心を変えることはまず、見かたや考えを変えてみようという試みから始まる。今の自分のそれよりもっといいと思えるそれに出会い、取り入れること。この世で教わる学び方はそうだし、それはこの情報あふれる社会ではそう難しくないと思える。
しかしそれがいつの間にか、より合理的であるため、より生産性を上げるためと、目的がすり替わっていく。それは肉体である私たちの願いであるから。
そして結果が目に見えて形にならないと、今度は欠点探しが始まる。まだここがダメ、ここが足りない。
合格点を出せる自分になるための努力が延々と続き、自分との心の距離は開いていく。
自分と自分の心に愛が介在しないまま、自分探しが展開していく。
本当は愛を探す旅だというのに。
私たちの心はからだやかたちに囚われている。からだの感覚が不快であれば気分が下がり、悪いことが起こればそれを恐れる。
「自分の幸せは自分の感じ方が決める」という人があるが、それもおおむね与えられたものによって幸せかどうかを測っている。「小さくても幸せ」のように、それは大小の違いに過ぎないように思う。
この肉体の世界はどこまで行っても始まりと終わり、得ると失うとの連続だ。それをただそのまま受け入れるにはあきらめが必要になる。しかしそれで本当の幸せはあるのだろうか。
敏感な人はマイナスのことにより心を奪われやすい。気がつけば防御ばかりの人生になり、それは人生のほとんどをあきらめていることに違いない。
では心をどう変えればいいのだろう。
からだに貼りついた心をはがして内なる神に貼りつける。
瞑想の目的は本来ここにある。
インナーチャイルドや過去世のワークは、心が特にからだに強力に貼りついている部分に気づいて癒してあげるための誘導瞑想だ。そこを癒すと心は安心してからだ(自我)を離れられる。
内なる神に向けて開かれた心は、神の愛の法を受け入れ始める。
これが心が変わる仕組み。
そして瞑想とともに普段から最上級の言葉で頭をいっぱいにしておくことだと私は思う。最上級の言葉とは、真理であり愛を説く言葉だ。この上ない完全な理の前に、思考はやがて従うようになる。
私たちの心は、愛を幸せに感じる力を備えている。そして感じれば感じるほど、それ以外のものは遠のいていく。もしも心が愛に抵抗するのなら、心はまず癒されることを求めている。そこから始めることだ。
幸せとはイコール神の愛に満ちた心のこと。自我が認識している有限の愛ではなく、純粋で無限の可能性に満ちたちから。そのちからによって生きていく。その取り組みは一秒でも早いほうがいいのかもしれない。