試練、という言葉を喜ばしく受け取れたら幸せだと思う。
先日は二十歳過ぎのフレッシュでさわやかなボーイが、お母さんと一緒に心の勉強会に参加してくれた。
それだけで希望がわくような、それだけで幸せな光景。
大変なことがあっても、神さまからの試練なのかなーくらいにしか思わないんです、と彼は明るく言った。
きっと内側で乗り越えた手ごたえと感触を確かめながら、そう言葉にしてくれたに違いない。
言葉にはイメージがつきまとう。このイメージこそが想念のエネルギーであり、私たちの心に作用する。
神さまは私たちを試すだろうか。試したあげく審判を下し処罰するのか。それは人間の、自我のやり方だ。
神は愛でのみ私たちを磨き上げる。
愛によって磨かれた私たちの心の側面は、愛だけを反射するようになる。
一見嫌なものの奥にある神の真意を見つけた時にのみ、私たちはその愛の深遠さを実感できる。
一見嫌なものから逃げてばかりいてはいけないのはただ、そういう理由だ。
試練に耐えたから成果があるわけではない。
便利とか安全が逃げ道になって多くの人がしあわせを見つけられないとしたらそれが現代の不幸のかたちだと思う。
スピリチュアルを求める人の間ですら、スピリチュアルそのものが逃げ道になっている様相を見かけると心から悲しく思う。
一番まっとうな道が愛なのだから。愛を学ぼう。それがすべての困難を最善に解決する。当たり前すぎる言い方だけれど。
■毎週金曜日13時から、心の勉強会
■毎月第4日曜日10時から、定期瞑想会
■個人セッションは当日のご予約も可能です。
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感謝とともに
AZU拝