みなさん、こんにちは。ご無沙汰しています。
沖縄では長く激しい梅雨もようやく明けて、そうそう、夏ってこれだったと思い出すことができました。今日も目の前に美しい空と海、緑が広がっています。
ですが緊急事態宣言は残念ながら明けませんね。
情報の混乱は相変わらずのようです。
情報の混乱は散らかったお部屋にいるようで、私は個人的に疲れます。
きっとみなさんそれぞれいろんな意味で疲れもおありと思います。
疲れたまんまものごとを観るとなにかと咎めたくなるものです。
そうすればますます世界は窮屈になり、結果自分に重石が乗っかっていきます。
疲れにはもっと疲れる状況が引き寄せられるっていう、あれですね。
でもそんな罪と罰みたいな見かたよりも、私たちは単に見たいものを見ていると言ったほうが真実だと思います。
なにより罪と罰的な考えをしていると、気づきがあってもそこから動けないんです。
嫌なものに気づいた時、それが私の中にもあるはず、それはどこにあるんだろうと探したり罰したりしたくなります。
罪という原因があり結果罪があるという見方ですね。
でも本当は見たいものにフォーカスしているだけだから、別の見かたを探せばいいだけなんです。
ただそこを立ち去り別の道を探す。そういうイメージです。
それが裁かずに変容する、神のやり方です。
内なる神の導きを願うとき、言うべき言葉はまさにそれです。
「私はこの件について別の見かたをしたいです!」
この声を聖霊が聞きつけ、あなたに気づきという答えが来ます。
ただしその見かたをするようになったにはそれなりの理由があるから、それをはっきり観ることでより明確に古い見かたを卒業できるのは事実です。
そしてそれを観る時「咎めなく観る」ことが最も重要な態度です。
咎めなく観るには練習が必要です。
よく「ジャッジメントしない」という言葉を聞きますが、感じていることを無視することにすり替わっていることが多い気がします。
咎めなく観ることは、感じ切っていないとできません。
最大限心を開いて感じてみると、恐れるべき可能性は消え、ただの恐れとなり、またその恐れをも体験し終えることができます。
その時、防御が消えて、あるがままが見えます。
咎めなく観るには、慣れるまでは立会人がいたほうが有利です。
一緒に練習すると手探りよりはかなり時間とエナジーを短縮できます。
そしてその分早く愛を広げることができます。
日常のほんの小さな心の動きに関心を抱き、喜んで探究するようになると、無限の気づきが溢れます。世界はなにも変わらないのに、私たちは内側で天地がひっくり返るような喜びだって体験できます。
まさに奇跡です。